》らしく笑ふ。よく物を言ふ眼が間斷なく働いて、解けば手に餘る程の髮は黒い。天賦か職業柄か、時には二十八といふ齡に似合はぬ若々しい擧動も見せる。一つには未だ子を持たぬ爲でもあらう。
 富江には夫がある。これも盛岡で學校教師をしてゐるが、人の噂では二度目の夫だとも言ふ。それが頗る妙で、富江が此村に來てからの三年の間、正月を除いては、農繁の休暇にも暑中の休暇にも、盛岡に歸らうとしない。それを怪んで訊ねると、
『何有《なあに》、私なんかモウお婆さんで、夫の側に喰附いてゐたい齡《とし》でもありません。』と笑つてゐる。對手によつては、女教師の口から言ふべきでない事まで平氣で言つて、恥づるでもなく冗談にして了ふ。
 村の人達は、富江を淡白な、さばけた、面白い女として心置なく待遇《あしら》つてゐる。殊にも小川の母――お柳にはお氣に入りで、よく其家にも出入する。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事から、この町に唯一軒の小川家の親戚といふ、立花といふ家に半自炊の樣にして泊つてゐるのだ。服裝を飾るでもなく、本を讀むでもない。盛岡には一文も送らぬさうで、近所の内儀さんに融通してやる位の小金は何日でも持つてゐると言ふ。
 街路は八分通り蔭つて、高聲に笑ひ交してゆく二人の、肩から横顏を明々《あか/\》と照す傾いた日もモウ左程暑くない。
『だが何だ、神山さんは何日見ても若いですね。』と揶揄《からか》ふ樣に甘つたるく舌を使つて、信吾は笑ひながら女を見下した。
『奢《おご》りませんよ。』と言ふ富江の聲は訛《なま》つてゐる。『ホヽヽ、いくら髭を生やしたつて其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》年老《としと》つた口は利くもんぢやありませんよ。』
『呀《おや》、また髭を……。』
『寄つてらつしやい。』と富江は俄かに足を留めた。何時しか己が宿の前まで來たのだ。
『次にしませう。』
『何故? モウ虐《いぢ》めませんよ。』
『御馳走しますか?』
『しますとも……。』
と言つてる所へ、家の中から四十五六の汚らしい裝《なり》をした、内儀《かみ》さんが出て來て、信吾が先刻寄つて呉れた禮を諄々《くど/\》と述べて、夫もモウ歸る時分だから是非上れと言ふ。夫の金藏といふ此家の主人は、二十年も前から村役場の書記を勤めてゐるのだ。
 信吾がそれを斷つて歩き出すと、
『信吾さん、それぢや屹度押しかけて行きますよ。』
『あゝ被來《いらつしや》い、歌留多《かるた》なら何時でもお相手になつて上げるから。』
『此方から教へに行くんですよ。』と笑ひ乍ら、富江は薄暗い家の中へ入つて行つた。
 と、信吾は急に取濟した顏をして大胯に歩き出したが、加藤醫院の手前まで來ると、フト物忘れでもした樣に足を緩《ゆる》めた。

      四

 今しもその、五六軒彼方の加藤醫院へ、晩餐の準備の豆腐でも買つて來たらしい白い前掛の下女が急ぎ足に入つて行つた。
『何有《なあに》、たかが知れた田舍女ぢやないか!』と、信吾は足の緩んだも氣が附かずに、我と我が撓《ひる》む心を嘲つた。人妻となつた清子に顏を合せるのは、流石に快《こゝろよ》くない。快くないと思ふ心の起るのを、信吾は自分で不愉快なのだ。
 寄らなければ寄らなくても濟む、別に用があるのでもないのだ。が、狹い村内の交際は、それでは濟まない。殊には、さまでもない病氣に親切にも毎日※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]診に來てくれるから是非顏出しして來いと母にも言はれた。加之《のみならず》、今日は妹の靜子と二人で町に出て來たので、其妹は加藤の宅で兄を待合して一緒に歸ることにしてある。
『疚《やま》しい事があるんぢやなし……。』と信吾は自分を勵ました。『それに加藤は未だ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]診から歸つてゐまい。』と考へると、『然《さ》うだ。玄關だけで挨拶を濟まして、靜子を伴れ出して歸らうか。』と、つい卑怯な考へも浮ぶ。
『清子は甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》顏をするだらう?』といふ好奇心が起つた。と、
『私はあの、貴方の言葉一つで……。』と言つて眤と瞳を据ゑた清子の顏が目に浮んだ。――それは去年の七月の末加藤との縁談が切迫塞《せつぱつま》つて、清子がとある社《やしろ》の杜に信吾を呼び出した折のこと。――その眼には、「今迄この私は貴方の所有《もの》と許り思つてました。恁う思つたのは間違でせうか?」といふ、心を張りつめた美しい質問が涙と共に光つてゐた。二人の上に垂れた楓の枝が微風に搖れて、葉洩れの日影が清子の顏を明るくし又暗くしたことさへ、鮮かに思出される。
 稚い時からの戀の最後を、其時、二人は人知
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