信吾は歸省の翌々日、村の小學校を訪問したのであつた。
二
智惠子の泊まつてゐる濱野といふ家は町でもズット北寄りの――と言つても學校からは五六町しかない――寺道の入口の小さい茅葺家がそれである。智惠子が此家の前まで來ると、洗晒しの筒袖を着た小造りの女が、十許りの女の兒を上り框《かまち》に腰掛けさせて髮を結つてやつて居た。
それと見た智惠子は直ぐ笑顏になつて、溝板を渡りながら、
『只今。』
『先生、今日は少し遲う御座《ごあ》んしたなッす。』
『ハ。』
『小川の信吾さんが、學校にお出で御座《ごあ》んしたらう?』
『え、被來《いらしつ》てよ。』と言つた顏は心持赧かつた。『それに、今日は三十日ですから少し月末の調べ物があつて……。』と何やら辯疏《いひわけ》らしく言ひながら、下駄を脱いで、
『アノ、郵便は來なくて小母《をば》さん?』
『ハ、何にも……然う/\、先刻《さつき》靜子さんがお出でになつて、アノ、兄樣もお歸省《かへり》になつたから先生に遊びに被來《いらしつ》て下さる樣にツて。』
『然う? 今日ですか?』
『否《いゝえ》。』と笑を含んだ。『何日とも被仰《おつしや》らな御座《ごあ》んした。』
『然うでしたか。』と安心した樣に言つて、『祖母さんは今日は?』
『少し好い樣で御座《ごあ》んす。今よく眠つてあんすから。』
『夜になると何日でも惡くなる樣ね。』と言ひながら、直ぐ横の破れた襖を開けて中を覗いた。薄暗い取散らかした室の隅に、臥床が設けてあつて、汚れた布團の襟から、彼方向の小い白髮頭が見えてゐる。枕頭には、漆の剥げた盆に茶碗やら、藥瓶やら、流通の惡い空氣が、藥の香と古疊の香に濕つて、氣持惡くムッとした。
智惠子は稍暫しその物憐れな室の中を見てゐたが、默つて襖を閉めて、自分の室に入つて行つた。
上り口の板敷から、敷居を跨げば、大きく焚火の爐を切つた、田舍風の廣い臺所で、其爐の横の滑りの惡い板戸を明けると、六疊の座敷になつてゐる。隔ての煤けた障子一重で、隣りは老母の病室――疊を布いた所は此二室しかないのだ。
東向に格子窓があつて、室の中は暗くはない。疊も此處は新しい。が、壁には古新聞が手際惡く貼られて、眞黒に煤けた屋根裏が見える、壁側に積重ねた布團には白い毛布が被《かゝ》つて、其に並んだ箪笥の上に、枕時計やら鏡臺やら、種々な手※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りの物が整然と列べられた。
脱いだ袴を疊んで、桃色メリンスの袴下を、同じ地の、大きく菊模樣を染めた腹合せの平生帶《ふだんおび》に換《か》へると、智惠子は窓の前の机に坐つて、襟を正して新約全書《バイブル》を開いた。――これは基督信者《クリスチャン》なる智惠子の自ら定めた日課の一つ、五時間の授業に相應に疲れた心の兎もすれば弛むのを、恁うして勵まさうとするのだ。
展《ひら》かれたのは、モウ手癖のついてゐる例の馬太《マタイ》傳第二十七章である。智惠子は心を沈めて小聲に讀み出した。縛られた耶蘇《イエス》がピラトの前に引出されて罪に定められ、棘《いばら》の冕《かんむり》を冠せられ、其面に唾せられ、雨の樣な嘲笑を浴《あ》びて、遂にゴルゴダの刑場に、二人の盜人と相並んで死に就くまでの悲壯を盡した詩――『耶蘇《イエス》また大聲に呼はりて息絶えたり。』と第五十節迄讀んで來ると、智惠子は兩手を強く胸に組合せて、稍暫し默祷に耽つた。何時でも此章を讀むと、言ふに言はれぬ、深い/\心持になるのだ。
軈て智惠子は、昨日來た友達の手紙に返事を書かうと思つて、墨を磨《す》り乍ら考へてゐると、不圖、今日初めて逢つた信吾の顏が心に浮んだ。……
丁度此時、信吾は學校の門から出て來た。
三
長過ぎる程の紺絣の單衣に、輕やかな絹の兵子帶、丈高い體を少し反身《そりみ》に何やら勢ひづいて學校の門を出て來た信吾の背後《うしろ》から、
『信吾さん!』と四邊《あたり》憚からぬ澄んだ聲が響いて、色褪せた紫の袴を靡かせ乍ら、一人の女が急ぎ足に追驅けて來た。
『呀《おや》!』と振返つた信吾は笑顏を作つて、『貴女もモウ歸るんですか?』
『ハ、其邊まで御同伴《ごいつしよ》。』と馴々しく言ひ乍ら、羞《はにか》む色もなく男と並んで、『マア私の方が這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》に小さい!』
矢張女教師の神山富江といつて、女にして背の低い方ではないが、信吾と並んでは肩先までしか無い。それは一つは、葡萄《えび》色の緒の、穿き減した低い日和下駄を穿いてる爲でもある。肉の緊つた青白い細面の、醜い顏ではないが、少し反齒《そつぱ》なのを隱さうとする樣に薄い脣を窄《すぼ》めてゐる。かと思へば、些細の事にも其齒を露出《むきだし》にして淡白《きさく
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