ど、お母さんも少し酷《ひど》いわね、昌作叔父さんに。私時々さう思ふ事があつてよ。』
『それや昌作さんが惡いんだ。そして今は何をしてるだらう? 唯遊んでるのか?』
『歌を作つてるのよ。新派の歌。』
『歌? 那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》格好してて歌作るの? ハハハ。』
『仲々得意よ。そして少し天狗になつてるけど、眞箇《ほんと》に巧いと思ふのもあるわ。』
『莫迦な。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事してるから駄目なんだ。少し英語でも勉強すれや可いのに。』
この時、重い地響が背後《うしろ》に聞えた。二人は同時に振返つて見て、急がしく線路の外に出た。信吾の乘つて來た列車と川口驛で擦違つて來た、上りの貨物列車が、凄じい音を立てて、二人の間を飛ぶが如くに通つた。
其二
一
人通りの少い青森街道を、盛岡から北へ五里、北上川に架けた船綱橋《ふなたばし》といふを渡つて六七町も行くと、若松の並木が途絶《とだ》えて見すぼらしい田舍町に入る。兩側百戸足らずの家並の、十が九までは古い茅葺勝《かやぶきがち》で、屋根の上には百合や萱草や桔梗が生えた、昔の道中記にある澁民《しぶたみ》の宿場の跡がこれで、村人はただ町と呼んでゐる。小さいながらも呉服屋、菓子屋、雜貨店、さては荒物屋、理髮店、豆腐屋まであつて、素朴な農民の需要は大抵此處で充される。町の中央《まんなか》の、四隣《あたり》不相應に嚴しく土塀を繞《めぐら》した酒造屋《さかや》と向ひ合つて、大きな茅葺の家に村役場の表札が出てゐる。
役場の外に、郵便局、駐在所、登記所も近頃新しく置かれた。小學校は、町の南端れ近くにある。直徑尺五寸もある太い丸太の、頭を圓くして二本植ゑた、それが校門で、右と左、手頃の棒の先を尖らして、無造作に鋼線《はりがね》で繋いだ木柵は、疎《まば》らで、不規則で、歪んで、破れた鎧の袖を展《の》べた樣である。
柵の中は、左程廣くもない運動場になつて、二階建の校舍が其奧に、愛宕山の鬱蒼《こんもり》した木立を背負つた樣にして立つてゐる。
日射《ひざし》は午後四時に近い。西向の校舍は、後ろの木立の濃い緑と映り合つて殊更に明るく、授業は既に濟んだので、坦《たひら》かな運動場には人影もない、夏も初の鮮かな日光が溢れる樣に流れた。先刻《さつき》まで箒を持つて彷徨《さまよ》つてゐた、年老つた小使も何處かに行つて了つて、隅の方には隣家の鷄が三羽、柵を潜つて來てチョコ/\遊び※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐる。
と、門から突當りの玄關が開《あ》いて、女教師の日向智惠子はパッと明るい中へ出て來た。其拍子に、玄關に隣つた職員室の窓から賑やかな笑聲が洩れた。
クッキリとした、輪廓の正しい、引緊つた顏を眞正面に西日が照すと切《きれ》のよい眼を眩しさうにした。紺飛白《こんがすり》の單衣に長過ぎる程の紫の袴――それが一歩毎に日に燃えて、靜かな四邊の景色も活きる樣だ。齡は二十一二であらう。少し鳩胸《はとむね》の、肩に程よい圓みがあつて、歩き方がシッカリしてゐる。
門を出て右へ曲ると、智惠子は些《ちつ》と學校を振返つて見て、『氣障《きざ》な男だ。』と心に言つた。故もない微笑がチラリと口元に漂ふ。
家々の前の狹い淺い溝には、腐れた水がチョロ/\と流れて、縁に打込んだ杭が朽ちて白い菌が生えた。屋根が低くて廣く見える街路には、西並の家の影が疎《まばら》な鋸の齒の樣に落ちて、處々に馬を脱《はづ》した荷馬車が片寄せてある。鷄が幾群も、其下に出つ入りつ、零《こぼ》れた米を土埃の中に漁つてゐた。會つて頭を下げる小兒等に、智惠子は一々笑ひ乍ら會釋を返して行く。
一人、煮絞めた樣な淺黄の手拭を冠つて、赤兒を背負つた十一二の女の兒が、とある家の軒下に立つて妹らしいのと遊んでゐたが、智惠子を見ると、鼻のひしやげた顏で卑しくニタ/\笑つて、垢だらけの首を傾《かし》げる。智惠子は側へ寄つて來た。
『先生《しえんせえ》!』
『お松、お前また此頃學校に來なくなつたね?』と、柔かな物言ひである。
『これ。』と背中の兒を搖《ゆすぶ》つて、相變らずニタ/\と笑つてる。子守をするので學校に出られぬといふのだらう。
『背負《おぶ》つてでも可《い》いからお出なさい。ね、子供の泣く時だけ外に出れば可いんだから。』
お松はそれには答へないで、『先生《しえんせえ》ア今日お菓子喰つてらけな。皆してお茶飮んで……。』
『ホホヽヽ。』と智惠子は笑つた。『何處から見てゐたの?……今日はお客樣が被來《いらし》たから然《さ》うしたの。お前さんの家でもお客さんが行つたらお茶を出すんでせう?』
『出さねえ。』
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