許りも青森へ行つて、浩一と同棲した。
浩一の遺骨が來て盛んな葬式が營まれた時は、母のお柳の思惑《おもはく》で、靜子は會葬することも許されなかつた。だから、今でも表面では小川家の令孃に違ひないが、其實、モウ其時から未亡人になつてるのだ。
その夏|休暇《やすみ》で歸つた信吾は、さらでだに内氣の妹が、病後の如く色澤《つや》も失せて、力なく沈んでるのを見ては、心の底から同情せざるを得なかつた。そして慰めた。信吾も其頃は感情の荒んだ今とは別人のやうで、血の熱かい眞摯な二十二の若々しい青年であつたのだ。
九月になつて上京する時は、自ら兩親を説いて靜子を携へて出たのであつた。兄妹《ふたり》は本郷眞砂町の素人屋に室を並べてゐて、信吾は高等學校へ、靜子は某の美術學校へ通つた。當時少尉の松原政治が、兄妹《ふたり》に接近し初めたのは、其後間もなくの事であつた。
『姉さん。』と或時政治が靜子を呼んだ。靜子はサッと顏を染めて俯向《うつむ》いた。すると、『僕は今迄一度も、貴女を姉さんと呼ぶ機會がなかつた。これからもモウ機會がないと思ふと、實に殘念です。』と眞面目になつて言つた事がある。靜子も其初め、亡き人の弟といふ懷しさが先に立つて、政治が日曜毎の訪問を喜ばぬでもなかつた。
何日の間にかパッタリと足が止つた。其間に政治は同僚に捲込まれて酒に親む事を知つた。そして一昨年の秋中尉に昇進してからは、また時々訪ねて來た。然しモウ以前の單純な、素朴な政治ではなかつた。或時は微醺《びくん》を帶びて來て、些々《ちよい/\》擽る樣な事を言つた事もある。又或時は同じ中隊だといふ、生《なま》半可な文學談などをやる若い少尉を伴《つ》れて來て、態と其前で靜子と親しい樣に見せかけた。そして、靜子が次の間へ立つた時、『怎《どう》だ、仲々|美《い》いだらう?』と低い聲で言つたのが襖越しに聞こえた。靜子は心に憤《いきどほ》つてゐた。
昨年の春、母が産後の肥立が惡くて二月も患つた時、看護に歸つて來た儘靜子は再び東京に出なかつた。そして、此六月になつてから、突然政治から結婚の申込みを受けたのだ。
『それで、兄樣は奈何《どう》思つて?』と、靜子は、並んで歩いてゐる信吾の横顏を眤《じつ》と見つめた。
五
『奈何つて言つた所で、問題は頗る簡單だ。』
『然う?』と靜子は兄の顏を覗く樣にする。
『簡單さ。本人が厭なら仕樣がないぢやないか。』
『そんなら可いけど……。』と莞爾《につこり》する。
『だがまあ、お父さんやお母さんの意見も聞いて見なくちやならないし、それに祖父さんだつて何か理窟を言ふだらうしね。』
『ですけど、私|奈何《どう》したつて嫁《い》かないことよ。』
『そう頭つから我《が》を張つたつて仕方がないが、マア可いよ、僕に任して置けや心配する事は無い。お前の心はよく解つてるから。』
『眞箇《ほんと》?』
『ハハハ。まるで小兒《こども》みたいだ。』と信吾は無造作に笑ふ。
靜子も聲を合せて笑つたが、『ま、嬉しい。』と言つて額の汗を拭く。顏が晴やかになつて、心持や聲も華やいだ。
『兄樣、アノ面白い事があつてよ。』
『何だ?』
『叔父さんが私に同情してるわ。』
『叔父さんて誰? 昌作さんか?』
『えゝ。』と言つて、さも可笑相《をかしさう》な目附をする。昌作といふのは父信之の末の弟、兄妹《ふたり》には叔父に違ひないが、齡は靜子よりも一つ下の二十一である。
『今度の事件にか?』
『然うよ。過日《こないだ》奧の縁側で、祖母《おばあ》さんと何か議論してるの。そして靜子々々つて何か私の事言つてる樣なんですからね、惡いと思つたけど私立つて聞いたことよ。そしたら、(結婚といふものは戀愛によつて初めて成立するもので、他から壓制的に結びつけようとするのは間違だ。)なんて、それあ眞面目よ。すると祖母さんが、(あああゝ然うだらうともさ。)が可笑《をか》しいぢやありませんか。壓制的なんて祖母さんに解るもんですかねえ。ホホホヽヽ。』
『そして奈何《どう》した。』
『奈何もしやしないけど、面白かつたわ。そして折角祖父さん許り攻撃してるのよ。舊時代の思想だの何のつてね……お父さんやお母さんの事は言へないもんだから。』
『フム、然うか。……それで奈何《どう》する氣なんだらう、今後。』
『南米に行きたいんですつて。』
『南米に? そんな事で學校も廢《よ》したんだな。』
『それ許りぢやないわ。今年卒業するのでしたのを落第したんですもの。』
『中學も卒業せずに南米に行つたつて奈何《どう》なるもんか。それに旅費だつて大分|費《かゝ》る。』
『全體で二百圓あれア可《いゝ》んですつて。』
『何處から出す積りだらう。家ぢや出せまいし……。』
『出せないことは無いと思ふわ。』
『だつて餘り無謀な計畫だ。』
『……ですけ
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