ぐに、
『だが何か服藥はしてるだらうね?』
『えゝ。……加藤さんが毎日來て診《み》て下さるのよ。』
『然うか。』と言つて、また態とらしく、『然うか、加藤といふ醫師があつたんだな。』
靜子はチラリと兄の顏を見た。
『醫師が毎日來る樣ぢや、餘り輕いんでもないんだね?』
『然うぢやないのよ。加藤さんは交際家なんですもの。』
『フム、交際家か!』と短い髭を捻つて、
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]風ぢや相應に繁昌《はや》つてるんだらう?』
『えゝ、宅の方へ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]診に來る時は、大抵自轉車よ。でなけや馬に乘つて來るわ。』
『ほう、景氣をつけたもんだな。そして何か、もう子供が生れたのか?』
『……まだよ。』と低い聲で答へて目を落した。
『それぢや清子さんも暇があつて可いんだらう。』
『えゝ。』
『女は子供を有つと、もう最後だからな。』
靜子は妙にトチッて、其儘口を噤《つぐ》んで了つた。人は長く別れてゐると、その別れてゐた月日の事は勘定に入れないで、お互ひにまだ別れなかつた時の事を基礎に想像する。靜子は、清子が加藤と結婚した事について、少からず兄に同情してゐる。今度歸つて來て、毎日來る加藤と顏を合せるのも、兄は甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に不愉快な思ひをするだらう、などとまで狹い女心に心配もしてゐた。そして、何かしらそれに關した事を言出されるかと、宛然《さながら》自分の持つてゐる鋭い刄物に對手が手を出すのを、ハラ/\して見てゐる樣な氣がしてゐたが、信吾の言葉は、故意かは知れないが餘りに平氣だ、餘りに冷淡だ。今迄の心配は杞憂《きいう》に過ぎなかつた樣にも思ふ。又、兄は自ら僞つてるのだとも思ふ。そして、心の底の何處かでは、信吾がモウ清子の事を深く心にとめても居ないらしい口吻を、何となく不滿に感じられる。その素振を見て取つて、信吾は亦自分の心を妹に勝手に忖度されてる樣な氣がして、これも默つて了つた。
二人は並んで歩いた。蒸す樣な草いきれと、乾いた線路の土砂の反射する日光とで、額は何時しか汗ばんだ。靜子の顏は、先刻《さつき》の怡々《いそ/\》した光が消えて、妙に眞面目に引緊《ひきしま》つてゐた。妹共はもう五六町も先方《さき》を歩いてゐる。十間許り前を行く松藏の後姿は、荷が重くて屈んでるから、大きい鞄に足がついた樣だ。
稍あつてから信吾は、『あの問題は、一體|奈何《どう》なつてるんだい?』と妹を見返つた。
『あの問題ツて、……松原の方?』と兄の顏を仰ぐ。
『あゝ。餘程切迫してるのかい?』
『さうぢや無いんですれど[#「ですれど」はママ]……。』
『手紙の樣子ぢや然う見えたんだが。』
『さうぢや無いんですけど。』と繰返して、『怎《どう》せ貴兄《あなた》の居る間に、何とか決《き》めなけやならない事よ。』
『然うか、それで未だ先方には何とも返事してないんだね?』
『えゝ。兄樣の歸つてらしやるのを待つてたんだわ。』
信吾は少し言ひ淀んで、『昨日|發《た》つ時にね、松原君が上野まで見送りに來て呉れたんだ……。』
靜子は默つて兄の顏を見た。松原政治といふのは、近衞の騎兵中尉で、今は乘馬學校の生徒、靜子の縁談の對手なのだ。
四
『發《た》つ四五日前にも、』と信吾は言葉を次いだ。『突然|訪《や》つて來て大分|夜更《よふけ》まで遊んで行つた。今度の問題に就いちや別段話もなかつたが、(俺も二十七ですからねえ。)なんて言つてゐたつけ。』
靜子は默つて聞いてゐた。
『休暇で歸るのに見送りなんか爲《し》て貰はなくつても可いと言つたのに、態々俥でやつて來てね。麥酒《ビール》や水菓子なんか車窓《まど》ン中へ抛《はふ》り込んでくれた。皆樣に宜敷《よろしく》つて言つてたよ。』
『然《さ》うでしたか。』と氣の無さ相な返事である。
『皆樣にぢやない靜さんにだらうと、餘程言つてやらうかと思つたがね。』
『まあ!』
『ナニ唯思つた丈さ。まさか口に出しはしないよ。ハッハハ。』
この松原中尉といふのは、小川家とは遠縁の親戚で、十里許りも隔つた某村の村長の次男である。兄弟三人皆軍籍に身を置いて、三男の狷介と云ふのが靜子の一歳下の弟の志郎と共に士官候補生になつてゐる。
長男の浩一は、過る日露の役に第五聨隊に從つて、黒溝臺の惡戰に壯烈な戰死を遂げた。――これが靜子の悲哀である。靜子は、女學校を卒へた十七の秋、親の意に從つて、當時歩兵中尉であつた此浩一と婚約を結んだのであつた。
それで翌年の二月に開戰になると、出征前に是非盃事をしようと小川家から言出した。これは浩一が、生きて歸らぬ覺悟だと言つて堅く斷つたが、靜子の父信之の計ひで、二月
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