れず語つたのだ。……此追憶は、流石に信吾の心を輕くはしない。が、その時の事を考へると、『俺は強者だ。勝つたのだ。』といふ淺間しい自負心の滿足が、信吾の眼に荒《すさ》んだ輝きを添へる……。
取濟ました顏をして、信吾は大胯に杖を醫院の玄關に運んだ。
昔は町でも一二の濱野屋といふ旅籠屋であつた、表裏に二階を上げた大きい茅葺家に、思切つた修繕を加へて、玄關造にして硝子戸を立てた。その取つてつけた樣な不調和な玄關には、『加藤醫院』と鹿爪らしい楷書で書いた、まだ新しい招牌《かんばん》を掲げた。――開業醫の加藤はもと他村の者であるが、この村に醫者が一人も無いのを見込んで一昨年の秋、この古家を買つて移つて來た。生れ村では左程の信用もないさうだが、根が人好きのする男で、技術の巧拙より患者への親切が、先づ村人の氣に入つた。そして、村長の娘の清子と結婚してからは馬を買ひ自轉車を買ひ、田舍者の目を驚かす手術臺やら機械やらを置き飾つて、隣村二ヶ村の村醫までも兼ねた。
信吾が落着いた聲で案内を乞ふと、小生意氣らしい十七八の書生が障子を開けた。其處は直ぐ藥局で、加藤の弟の代診をしてゐる愼次が、何やら薄紅い藥を計量器《メートルグラス》で計つてゐた。
『や、小川さんですか。』と計量器を持つた儘で、『さ何卒《どうぞ》お上り下さいまし。』と無理に擬《ま》ねた樣な訛言《なまり》を使つた。
そして『姉樣《ねえさん》、姉樣。』と聲高く呼んで、『兄もモウ歸る時分ですから。』
『ハ、有難う。妹は參つてゐませんですか?』
其處へ横合ひの襖が開いて清子が出て來た。信吾を見ると、『呀《あ》。』と抑へた樣な聲を出して、膝をついて、『ようこそ。』と言ふも口の中。信吾はそれに挨拶をし乍らも、頭を下げた清子の耳の、薔薇の如く紅きを見のがさなかつた。
『さ何卒《どうぞ》。靜さんも待つてらつしやいますから。』
『否《いや》、然《さ》うしては……。』と言はうとしたのを止して、信吾は下駄を脱いだ。處女らしい清子の擧動が、信吾の心に或る皮肉な好奇心を起さしめたのだ。
五
二十分許り經つて、信吾兄妹は加藤醫院を出た。
一筋町を北へ、一町許り行くと、傾き合つた汚ならしい、家と家の間から、家路を左へ入る、路は此處から、水車場の前の小橋を渡つて、小高い廣い麥畑を過ぎて、阪を下りて、北上川に架けられた、鶴飼橋といふ吊橋を渡つて十町許りで大字川崎の小川家に行く。落ちかけた夏の日が、熟して割れた柘榴《ざくろ》色の光線を、青々とした麥畑の上に流して、眞正面に二人の顏を彩《いろど》つた。
信吾は何氣ない顏をして歩き乍らも心では清子の事を考へてゐた。僅か二十分許りの間、座には靜子も居れば、加藤の母も愼次も交る/\挨拶に出た。信吾は極く物慣れた大人振つた口をきいた。清子は茶を薦め菓子を薦めつゝ唯|淑《しとや》かに、口數は少なかつた。そして男の顏を眞正面には得見なかつた。
唯一度、信吾は對手を「奧樣《おくさん》」と呼んで見た。清子は其時|俯《うつむ》いて茶を注《つ》いでゐたが、返事はしなかつた。また顏も上げなかつた。信吾は女の心を讀んだ。
清子の事を考へると言つても、別に過ぎ去つた戀を思出してゐるのではない。また豫期してゐた樣な不快を感じて來たのでもない。寧ろ、一種の滿足の情が信吾の心を輕くしてゐる。一口に言へば、信吾は自分が何處までも勝利者であると感じたので。清子の擧動がそれを證明した。そして信吾は、加藤に對して少しの不快な感を抱いてゐない、却つてそれに親しまう、親しんで而して繁く往來しよう、と考へた。
加藤に親しみ、清子を見る機會を多くする、――否、清子に自分を見せる機會を多くする。此方が、清子を思つては居ないが、清子には何時までも此方を忘れさせたくない。それ許りでなく、猫が鼠を嬲《なぶ》る如く敗者の感情を弄ばうとする、荒んだ戀の驕慢《プライド》は、も一度清子をして自分の前に泣かせて見たい樣な希望さへも心の底に孕んだ。
『清子さんは些とも變らないでせう。』と何かの序に靜子が言つた。靜子は、今日の兄の應待振の如何にも大人びてゐたのに感じてゐた。そして、兄との戀を自ら捨てた女友《とも》が、今となつて何故《なぜ》|那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》未練氣のある擧動をするだらう。否、清子は自ら恥ぢてゐるのだ、其爲に臆すのだ、と許り考へてゐた。
『些とも變らないね。』と信吾は短い髭を捻つた。『幸福に暮してると年は老らないよ。』
『さうね。』
其話はそれ限《きり》になつた。
『今日隨分長く學校に被居《いらし》たわね。貴兄《あなた》智惠子さんに逢つたでせう?』
『智惠子? ウン日向さんか。逢つた。』
『何う思つて、兄樣は?』と笑を含む。
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