\袖を噛んだが、それでも泣き聲が洩れる。
『莫迦野郎!』と、信吾は又しても唸る樣に言つて、下唇を喰縛り、堅めた兩の拳をブルブル顫はせて、恐しい顏をして突立つてゐる。
 靜子は死んだ樣に動かない。
『よし。』と信吾はまた唸つた。『貴樣はもう松原に遣《や》る。貴樣みたいなものを家に置くと、何をするか知れない。』
『マ。』と言つて、靜子はガバと起きた。『兄樣……其松原から今日人が來て……それで……』
 手荒く襖が開いて、次の間に寢てゐる志郎と昌作が入つて來た。
『怎《ど》うしたんだい兄|樣《さん》?』
『默れ!』と信吾は怒鳴つた。『默れ! 貴樣らの知つた事か。』
 そして、亂暴に靜子を蹴る、靜子は又ドタリと倒れて、先よりも高くわツと泣く。
『何だ?』と言ひ乍ら父の信之も入つて來た。『何だ? 夜更《よふけ》まで歩いて來て信吾は又何を其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に騷ぐのだ?』
『糞ツ。』と云ひさま、信吾は又靜子を蹴る。
『何をするッ、此莫迦!』と、昌作は信吾に飛びつく。志郎も兄の胸を抑へる。
『何をするツ、貴樣らこそ。』と、信吾はもう無中に咆り立つて、突然志郎と昌作を薙倒す。
『こらツ』と父も聲を勵して、信吾の肩を掴んだ。『何莫迦をするのだ! 靜は那方《あつち》へ行け!』
『糞ツ。』と許り、信吾は其手を拂つて手負猪の樣な勢ひで昌作に組みつく。
『貴樣、何故俺を抑へた※[#感嘆符疑問符、1−8−78]』
『兄樣!』
『信吾ツ!』
 ドタバタと騷ぐ其音を聞いて、別室の媒介者《なかうど》も離室の吉野も驅けつけた。帶せぬ寢卷の前を押へて母のお柳も來る。
『畜生! 畜生!』と信吾は無暗矢鱈に昌作を擲つた。

   其十二

 智惠子は、前夜腹の痛みに堪へかねて踊から歸つてから、夜一夜苦しみ明した。お利代が寢ずに看護してくれて、腹を擦つたり、温めたタオルで罨法《あんぽふ》を施《や》つたりした。トロ/\と交睫《まどろ》むと、すぐ烈しい便氣の塞迫と腹痛に目が覺める。翌朝の四時までに都合十三回も便所に立つた。が、別に通じがあるのではない。
 夜が清々《すが/\》と明放れた頃には、智惠子はもう一人で便所にも通へぬ程に衰弱した。便所は戸外《そと》にある。お利代が醫者に驅附けた後、智惠子は怺《こら》へかねて一人で行つた。行くときは壁や障子を傳つて危《あぶ》な氣に下駄を穿《つゝ》かけたが、歸つて來てそれを脱ぐと、もう立つてる勢ひがなかつた。で、臺所の板敷を辛《やつ》と這つて來たが、室に入ると、布團の裾に倒れて了つた。抉られる樣に腹が痛む。子供等はまだ起きてない。家の中は森としてゐる。窓際の机の上にはまだ洋燈《ランプ》が曚然《ぼんやり》點《とも》つてゐた。
 智惠子は堅く目を瞑つて、幽かに唸りながら、不圖、今し方戸外へ出た時まだ日の出前の水の樣な朝光《あさかげ》が、快く流れてゐた事を思ひ出した。
「もう夜が明けた。」と覺束なく考へると、自分は何日からとも知れず、長い/\間|恁《か》うして苦しんでゐた樣な氣がする。程經てから前夜の事が思ひ出された。それも然し、ずつとずつと以前の事のやうだ。
「今日あの方が來て下さるお約束だつた! 然うだ、今日だ、もう夜が明けたのだもの!……。すると今日は盆の十五日だ。昨日は十四日……然うだ、今日は十五日だ!」
 喧しく雀が鳴く。智惠子はそれを遙《ずつ》と遠いところの事の樣に聞くともなく聞いた。
『先生……先生!』と遠くで自分を呼ぶ。不圖氣がつくと、自分は其處で少し交睫《まどろ》みかけたらしい。お利代は加藤醫師を伴れて來て、心配氣な顏をして起してゐる。
『先生、まア恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]所に寢て、お醫師樣が被來《いらつしや》いましたよ。』
『まア濟みません。』然う言つてお利代に手傳はれ乍ら臥床の上に寢せられた。
 室には夜ツぴて點《つ》けておいた洋燈《ランプ》の油煙やら病人の臭氣やらがムッと籠つてゐた。お利代は洋燈《ランプ》を消し、窓を明けた。朝の光が涼しい風と共に流れ込んで、髮亂れ、眼凹み、皮膚の澤《つや》なく弛んだ智惠子の顏が、もう一週間も其餘も病んでゐたものゝ樣に見えた。
 加藤は先ず概略の病状を訊いた。智惠子は痛みを怺へて問ふがまゝに答へる。
『不可《いけ》ませんなア!』と醫師は言つた。そして診察した。
 脈も體温も少し高かつた。舌は荒れて、眼が充血してゐる。そして腹を見た。
『痛みますか?』と、少し脹つてゐる下腹の邊を押す。
『痛みます。』と苦し氣に言つた。
『此處は?』
『其處も。』
『フム。』と言つて、加藤は腹一帶を輕く擦《さす》りながら眉を顰めた。
 それからお利代を案内に裏の便所へ行つて見た。
「赤痢だ!」と
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