。『あの野郎奴、(有難う御座います。)とはよくも言ひやがたつた!』
信吾の憤りは再發した。(有難う御座います。)その言葉を幾度か繰返して思ひ出して、遂に、頭髮を掻き※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]りたい程腹立たしく感じた。そして、彼の癖の、ステッキを強く揮つて、自暴《やけ》にヒュゥと空氣を切つた。
『信吾さん!』と女の聲。彼は驚いた樣に顏を上げると、富江が白地の浴衣に月影を滴らせて、近づいて來る。草履を穿いてるのか足音がしない。
『信吾さん!』と富江は又呼んだ。
『あ、神山さんでしたか!』と一寸足を留めて、直ぐまた歩き出さうとする。
『まア、何處へ被行《いらつしや》るの?』
答もせずに信吾は五六歩歩いて、そしてグルリと自暴《やけ》に體を向直した。
『ハハヽヽ。何處へ行つたんです貴女こそ?』
『生徒の家へ招待《よば》れて、門前寺の……一人で散歩するなんて氣が利かないぢやありませんか、貴方は!』
『貴女だつて一人ぢやないか!』
『ホヽヽ、どうして智惠子|樣《さん》を誘つて上げなかつたの?』
『莫迦《ばか》な!』
『あら、月夜の散歩にはハイカラさんの手でも曳かなくちや詰らないぢやありませんか? 眞箇《ほんと》に!』
『何を言ふんです。』と信吾は苛々《いら/\》しく言つた。そして、突然富江の手を取つて、『僕は貴女の迎ひに來たんだ!』
『まア巧い事を!』と富江は左程驚いた風もなく笑つてゐる。
信吾は、女の餘りに平氣なのが癪に障つた。そして、不圖怖ろしい考へが浮んだ。物言はずに女の手を堅く握る。
富江も暫しは口を利かないで、唯笑つてゐた。そして、『私の手なんか駄目よ、信吾さん! 女の手の樣ぢやないでせう?』
『…………』
『私は女ぢやないんですよ。』
『富江樣。』と言ひながら、信吾は無遠慮に女の肩に手をかけた。『そんなら貴女は第三性ですか? ハハヽヽ。』
『あ重い!』と言つたが逃げ樣ともせぬ。そして、急に眞面目な顏をして眤《ぢつ》と男の顏を見ながら、『眞箇よ。私|石女《うまずめ》なんですもの。子供を生まない女は女ぢやないんでせう?』そして、袂を口にあてゝ急にホホヽヽと笑ひ出した。
其夜は信吾は十時過までも富江の宿にゐた。宿の主人の老書記は臨時に隔離病舍に詰めてゐる。主婦や子供らは踊に行つて留守であつた。
で、彼が家へ歸つてくると、玄關の戸がもう閉《しま》つてゐた。信吾は何がなしにわが家ながら閾《しきい》が高い樣な氣がして、成るべく音を立てぬ樣にして入つた。
八
家に入つた信吾の心は、妙に臆《ひる》んでゐた。彼は富江と別れて十幾町の歸路を、言ふべからざる不愉快な思ひに追はれて來た。烈しい××××××××××××しい疲勞が、今日一日の苛立《いらだ》つた彼の心を彌更に苛立たせた。
『淺猿しい、淺猿しい!』と、彼は幾度か口に出して自分を罵つた。彼はもう此儘人知れず何處かへ行つて了ひたい樣な氣がした。飽くを知らざる富江の餓ゑた顏を思出すと、言ふべからざる厭惡の念が起る。そして又、段々家へ近附くにつれて、戀仇の吉野に對する自暴腹《やけつぱら》な怒りが強く發した。其怒りが又彼を嘲る。信吾は人に顏を見られたくなかつた。
で、成るべく音立てぬ樣に縁側傳ひに自分の室に行く。家中もう寢て了つたと見えて、森としてゐた。と、離室に續く縁側に輕い足音がして、靜子が出て來た。四邊《あたり》は薄暗い。
『あら兄樣、遲かつたわねえ。何處に居たんですか、今迄?』
『何處でも可いぢやないか!』と、聲は低く、然し慳貪《けんどん》だ。
『まア!』
信吾は、わが仇の吉野の室に妹が行つてゐたと思ふと、抑へきれぬ不快な憤怒が洪水の樣に頭に溢れた。
『貴樣こそ何處に行つてるんだ? 夜《よる》夜中人が寢て了つてから!』
靜子は驚いて目を丸くして立つてゐる。それが、何か嚴しく詰責でもされる樣で、信吾の憤怒は更に燃える。
『莫迦野郎! 何處に行つてるんだ?』と言ふより早く一つ靜子を擲つた。
靜子は矢庭に袂を顏にあてた。
『兄樣……其樣《そんな》……』
『此方へ來い。』と、信吾は荒々しく妹の手を引張つて、自分の室に入るとドッと突倒した。
『此畜生! 親や兄の眼を晦まして、……』
『わツ。』と靜子は倒れた儘で聲をあげた。先刻町から歸つてから、待てども/\兄が歸らぬ。母も叔母も何とも言つてくれぬだけ媒介者との話の成行《なりゆき》が氣にかゝつた。自分から聞かれる事でもなく、手頼るは兄の信吾、その信吾が今日|媒介者《なかうど》が來たも知らずにゐると思ふと、もう心配で/\堪らなくなつて、今も密《そつ》と吉野の室に行つて、その歸りの遲きを何の爲かと話してゐたのである。
靜子は故なき兄の疑ひと怒が、口惜しい、恨めしい、辯解をしようにも喉が塞つて、たゞ堅く/
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