子を口説いてみた。彼は有らゆる美しい言葉を並べた。女は眤《ぢつ》と俯向《うつむ》いてゐた。
 最後に信吾は言つた。
『智惠子さん、貴女は哀れな僕の述懷を、無論無意味には聞いて下さらないでせうね?』
『…………』
『智惠子さん!』と、情が迫つた樣に聲を顫した。『僕は貴女から何の報酬を望むのではありません。智惠子さん、唯、唯、です、僕は貴女から、僕が常に貴女の事を思つても可《い》いと許して頂けば可いんです、それだけです。それさへ許して頂けば、僕の生涯が明るくなります……。』
『小川さん!』と女は屹《きつ》と顏をあげた。其顏は眉毛一本動かなかつた。『私の樣なものゝことを然《さ》う言つて下さるのはそれや有難う御座いますけれど。』
『は※[#感嘆符疑問符、1−8−78]』
『何卒その事は二度と仰しやつて下さらない樣にお願ひします。』
 信吾は眤《ぢつ》と腕を組んだ。
『失禮な事を申す樣ですが……』
『ウ、……何故でせう?』
『……別に理由はありませんけれど……。』
『あゝ、貴女には僕の切ない心がお解りにならないでせう!』と、さも落膽《がつかり》した樣に言つて、『然しです、何か理由が、然う被仰《おつしや》るからには有らうぢやありませんか? それを話して戴く譯にはいかないんですか?』
『…………』
『智惠子さん! ぼくがこれだけ恥を忍んで言つたのに、理由なくお斷りになるとは餘りです、餘りに侮辱です。』
『ですけれど……』
『そんならです。』と、信吾は今迄の事は忘れて新らしい仇の前にでも出た樣に言つた。其眼は物凄く輝いた。
『僕は唯一つ聞かして頂きたい事があります。智惠子さん、怎《ど》うでせう、聞かして下さいますか?』
『……私の知つてをります事ならそれは……』
『無論御存じの事です。』と信吾は肩を聳かした。『話は全然別の事です。僕は僕の一切を犧牲にして、友人たる貴女と吉野の幸福を祝ひます。』
 智惠子は胸を刺されたやうにピクリとした。然し一寸も動かなかつた。顏色も變へなかつた。
『怎《ど》うです。』と男は更に突込んだ。『貴女は僕の祝ひを享けて下さいますか、それを聞かして下さい。』
『…………』
『僕は今言つた事を凡て取消して、友人としての眞心からお二人の爲に祝ひます。怎《ど》うです、享けて下さいますか?』
『…………』
『何卒享けて下さい!』と信吾は毒々しく迫る。
 智惠子の顏はクワッと許り紅くなつた。そして、『有難う御座います。』と明かに言放つた。

      七

 智惠子の宿から出た信吾の心は、強い屈辱と憤怒と、そして、何かしら弱い者を虐めてやつた時の樣な思ひに亂れてゐた。恁《か》うなると彼は、今日自分の遣つた事は、豫じめ企んで遣つたので、それが巧く思ふ壺に嵌つて智惠子に自白さしたかの樣に考へる。我と我を輕蔑《さげす》まうとする心を、強ひて其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》風に考へて抑へて見た。
 信吾は、成るべく平靜な態度をして、その足で直ぐ加藤醫院を訪ね、學校を訪ねた。彼は夕方までに歸つて、吉野や妹共と一緒に踊を見物に出る約束を忘れてはゐなかつた。が、何の意味もなく、フンと心で笑つてそれを打消した。
 其時の信吾は、平常よりも餘程機嫌が好い樣に見えた。然し彼は、詰らぬ世間話に大口を開いて笑へば笑ふ程、何か自分自身を嘲つてる樣な氣がして來て、心にも無い事を一口言へば一口言ふ丈、胸が苛立《いらだ》つて來る。高い笑聲を殘して、彼は遂に學校から飛び出した。
 もう日暮近い頃であつた。
 自嘲の念は烈しく頭を亂した。何故那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事をいつたらう? 莫迦な、もう智惠子の顏を見ることが出來なくなつた! と彼は悔いた。何故もつと早く、――吉野の來ないうちに言はなかつたらう※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
『畜生奴! 到頭白状させてやつた。』恁《か》う彼は口に出して言つて見た。が、矢張り彼は女から享けた拒絶の耻辱を、全く打消すことが出來なかつた。よし彼女を免職させる樣にしてやらうか! 否、それよりは何うかして吉野を追拂はう!
 彼の心は荒れに荒れた。町端れから舟綱橋まで、國道を七八町滅茶苦茶に歩いて、そして、恐ろしい復讐を企てながら歸るともなく歸つて來た。が、彼は人に顏を見られたくない。町端れから又引返して、今度は舊國道を門前寺村の方へ辿つた。
 月が昇つた。
 途斷れ/\に、町へ來る近村の男女に會つた。彼は然しそれに氣がつかぬ。何時しか彼は吉野との友情を思ひ出してゐた。
『何有《なあに》! 知らん顏をしてゐればそれで濟む。豈夫智惠子が言ひは爲《し》まい。』と彼は少し落着いて來た。
『然し。』と彼は又しても吉野が憎くなる
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