智惠子は其時思つた。そして吉野に逢へなくなるといふ悲みが湧いた。
智惠子の病氣は赤痢――然も稍烈しい、チブス性らしい赤痢であつた。そして午前九時頃には擔架に乘せられて隔離病舍に收容された。お利代の家の門口には「交通遮斷」の札が貼られて、家の中は石炭酸の臭氣に充ち、軒下には石灰が撒かれた。
丁度智惠子が隔離病舍に入つた頃、小川の家では、信吾が遲く起きて、そして、今日の中に東京に歸らして呉れと父に談判してゐた。父は叱る、信吾は激昂する。結局「勝手になれ」と言ふ事になつて、信吾は言ひがたい不愉快と憤怒を抱いてふいと發《た》つた。それは午後の二時過。
吉野は加藤との約束があるので、留まる事になつた。そして直ぐにも加藤の家に移る積りだつたが、色々と小川家の人達に制《と》められて、一日だけ延ばした。小川家には急に不愉快な、そして寂しい空氣が籠つた。
日が暮れると、吉野は一人町へ出た。そして加藤から智惠子の事を訊かされた。吉野は直ぐ智惠子の宿を訪ねた。町には矢張り樺火が盛んに燃えてゐた。彼は裏口から※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて霎時《しばらく》お利代と話した。そして、石炭酸臭い一封の手紙を渡された、それは智惠子が鉛筆の走り書。――恁う書いてあつた。
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御心配下さいますな。決して御心配下さいますな。お目にかゝれないのが何より――病の苦痛より辛う御座います。吉野樣、何卒私がなほるまでこの村にゐて下さい。何卒、何卒。
屹度四五日で癒ります。あなたは必ず私のお願ひを聞いて下さる事と信じます。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]ちゑ
よしの樣まゐる
其十三
一
智惠子の容體は、最初隨分危險であつた。隔離病舍に收容された晩などは知覺が朦朧になり、妄語《うはごと》まで言つた位。てつきりチブス性の赤痢と思つて加藤も弱つたのであるが、三日許りで危險は去つた。そして二十日過になると、赤痢の方はもう殆んど癒つたが、體が極度に衰弱してゐるところへ、肺炎が兆した。そして加藤の勸めで、盛岡の病院に入ることになつた。
吉野は病める智惠子と共に澁民を去つた。彼は有ゆるものを犧牲に拂つても、必ず智惠子を助けねばならぬと決心してゐた。
信吾去り、志郎去り、智惠子去り、吉野去つて二月の間に起つた種々の事件が、一先づ結末を告げた。
八月も末になつた。そして、靜子は新しく病を得た。
靜子の縁談は本人の希望通りに破れて了つた。この事で最も詰らぬ役を引受けたのは例の叔母で、月の初めに來た時、お柳からの祕かの依頼で、それとなく松原家を動かし、媒介者《なかうど》を同伴して來るまでに運んだのであるが、來て見るとお柳の態度は思ひの外、對手の松原中尉の不品行(志郎から聞いた)を楯に、到頭破談にして了つた。
靜子は、何處といふことなく體が良くなかつた。加藤は神經衰弱と診察した。そして、毎日散歩ながら自分で藥取に行く樣に勸めた。で、日毎に午前九時頃になると、何がなしに打沈んだ顏をして靜子は、白ハンカチに包んだ藥瓶を下げて町にゆく姿が、鶴飼橋の上に見られた。
そして靜子は、一時間か二時間、屹度清子と睦しく話をして歸る。
或る日の事であつた。二人は醫院の裏二階の瀟洒《さつぱり》した室で、何日もの樣に吉野の噂をしてゐた。
靜子は怎《ど》うした機會《はずみ》からか、吉野と初めて逢つた時からの事を話し出して、そして、かの寫生帖の事まで仄めかした。
清子は熱心にそれを聞いてゐた。
『靜子さん。』と清子は、眤《ぢつ》と友の俯向《うつむ》いた顏を見ながら、しんみりした聲で言つた。『私よく知つてるわ。貴女の心を!』
『あら!』と言つて靜子は少し顏を赤めた。『何? 清子さん私の心つて?』
『隱さなくても好かなくつて、靜子[#「靜子」は底本では「清子」]さん?』
『…………』
默つて俯向《うつむ》いた靜子の耳が燃える樣だ。清子は、少し惡い事を云つたと氣がついて、接穗《つぎほ》なくこれも默つた。
『清子さん。』と、稍あつてから靜子は言つた。其眼は濕んでゐた。『私……莫迦だわねえ!』
『あら其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》! 私惡い事言つて……。』
『ぢやなくつてよ。私却つて嬉しいわ……。』
『…………』
清子の眼にも涙が湧いた。
『ねえ、清子さん!』と又靜子は鼻白《はなじら》んで言つた。『詰らないわねえ、女なんて!』
『眞箇《ほんと》よ、靜子さん。』と、清子は全く同感したといふ樣に言つて、友の手を取つた。
『然《さ》う思つて、貴女《あなた》も?』と、清子の顏を見るその靜子の眼から、美しい涙が一雫二雫頬に傳つた。
『靜子さん!』と、清子は言つた。『貴女…
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