消えかゝつた樺火を取卷いて四五人の小兒等がゐた。
『梅ちやん! 梅ちやん!』と妹共が先ず驅け寄る。其後から靜子は、『梅ちやん、先生は?』と優しく言ひながら近づいた。
 靜子は直ぐ氣が附いた。梅ちやんの着てゐる紺絣の單衣は、それは嘗て智惠子の平常着であつた!
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あな我が君のなつかしさよ、
     まみゆる日ぞまたるる。
君は谷の百合、峰のさくら、
     うつし世にたぐひもなし。
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 家の下からは幽かに讃美歌の聲が洩れる。信吾は居ない! 恁《か》う吉野は思つた。
『先生! 先生!』と梅ちやんは門口から呼ぶ。

      三

 智惠子に訊《き》くと、信吾は一時間許り前に歸つたといふ。
『まア何處へ行つたんでせうねえ。夕方までに歸つて、私達と一緒に又出かける筈でしたのよ。これから何處へ行くとも言はなかつたんでせうか?』
『否《いえ》、何んとも、別に。』と言つて、智惠子は意味ありげに、目で吉野を仰いで、そして俯向《うつむ》いた。
『歩いてゐたら逢ふでせうよ。』と吉野は鷹揚に言つた。
『怎《ど》うです。日向さんも被行《いらつしや》いませんか、盆踊を見に?』
『は、……まアお茶でも召し上つて……』
『直ぐ被行《いらつしや》いな、智惠子さん。何か御用でも有つて?』
と靜子も促す。
『否《いゝえ》。』
『行きませう! 僕は盆踊は生れて初めてなんです。』
と、吉野はもう戸外へ出る。
 で、智惠子は一寸奧へ行つて、帶を締直して來て、一緒に往來に出た。
 樺火は少し頽《すた》れた。踊がもう始まつたのであらう。太皷の音は急に高くなつて、調子に合つてゐる。唄の聲も聞える。人影は次第々々にその方へながれて行く。
 提灯を十も吊した加藤醫院の前には大束の薪がまだ盛んに燃えてゐて、屋内は晝の如く明るく、玄關は開け放されてゐる。大形の染の浴衣に水色縮緬をグル/\卷いた加藤を初め、清子、藥局生、下女、皆玄關に出て往來を眺めてゐた。
『やア、皆樣お揃ひですナ。』と、加藤から先づ聲をかける。
『お涼みですか。』と吉野が言つて、一行はゾロ/\と玄關に寄つた。
『Guten《グーテン》[#「Guten」は底本では「Cuten」] Abend《アベンド》, Herr《ヘル》 Yosino《ヨシノ》! ハハヽヽヽ。』と、近頃通信教授で習つてるといふ獨逸語を使つて、加藤は肥つた體を搖ぶる、晩酌の後で殊更機嫌が可いと見える。
『さ、まァお上りなさい、屹度|被來《いらつしや》ると思つたからチャンと御馳走が出來てます。』
『それは恐れ入つた。ハハヽヽ。』
 傍では、靜子が兄の事を訊いてゐる。
『先刻一寸|被行《いらつしや》つてよ。晩にまた來ると被仰つて直ぐお歸りになりましたわ。』と清子が言つた。
『うん、然《さ》う/\。』と加藤が言つた。
『吉野さん、愈々盆が濟んだら來て頂きませう。先刻《さつき》信吾さんにお話したら夫れは可い、是非書いて貰へと被仰《おつしや》つてでしたよ。是非願ひませう。』
『小川君にお話しなすつたですか! 僕は何日《いつ》でも可いんですがね。』
『眞箇《ほんと》に、小川さんに被居《いらつしや》るよりは御不自由で被居《いらつしや》いませうが、お書き下さるうちだけ是非|何卒《どうぞ》……』と清子も口を添へる。そして靜子の方を向いて、
『あの、何ですの、宅《うち》があの阿母樣の肖像を是非吉野さんに書いて頂きたいと申すんで、それで、お書き下さる間、宅に被行つて頂《いただ》きたいんですの。』
『大丈夫、靜子さん。』と加藤が口を出す。
『お客樣を横取りする譯ぢやないんです。一週間許り吉野さんを拜借したいんで……直ぐお返ししますよ。』
『ホヽヽ、左樣で御座いますか!』と愛相よく言つたものゝ、靜子の心は無論それを喜ばなかつた。
 吉野は無理矢理に加藤に引張り込まれた。女連《をんなづれ》は霎時《しばらく》其處に腰を掛けてゐたが、軈て清子も一緒になつて出た。
 町の丁度中程の大きい造酒家の前には、往來に盛んに篝火を焚いて、其周圍、街道なりに楕圓形な輪を作つて、踊が始まつてゐる。輪の内外には澤山の見物。太皷は四挺、踊子は男女、子供らも交つて、まだ始まりだから五六十人位である。太皷に伴れて、手振り足振り面白く歌つて※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る踊には、今の世ならぬ古色がある。揃ひの浴衣に花笠を被《かぶ》つた娘等もある。編笠に顏を隱して、醉つた身振りの可笑しく、唄も歌はず踊り行く男もある。月は既に高く昇つて、樂し氣に此群を照した。女連は、睦し氣に語りつ笑ひつし乍ら踊を見てゐた。
 と、輕く智惠子の肩を叩いた者があつた。靜子清子が少し離れて誰やら年増の女と挨拶してる時。

      四

 振向くと、何時醫院から出て來た
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