んで、そして、何か怒つてる樣な打切棒《ぶつきらぼう》な語調で智惠子の事を訊いた。
靜子は有の儘に答へた。
『然《さ》うか!』と言つた信吾の態度は、宛然《さながら》、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事は聞いても聞かなくても可いと言つた樣であつたが、靜子は征矢《そや》の如く兄の心を感じた。そして、何といふ事なしに、『兄樣に宜しくと言つてよ、智惠子樣が!』と言つて見た。智惠子は何とも言つたのではないが。
『然《さ》うか!』と、信吾は又|卒氣《そつけ》なく答へた。晝飯が濟むと、フラリと一人出て、町へ行つた。
信吾が出かけて間もなくである。月の初めに子供らを伴れて來た、盛岡の叔母が、見知らぬ一人の老人を伴れて來た。叔母は墓參の爲めと披露した。連の男は松原家から頼まれて來たのだとは直ぐ知れた。言ふまでもなく靜子の縁談の事で。
父の信之、祖父の勘解由、母お柳、その三人と松原家の使者とは奧の間で話してゐる。叔母も其席に出た。靜子は今更の樣に胸が騷ぐ。兄の居ないのが恨めしい。若しや此話から、自分と死んだ浩一との事が吉野に知れはしまいかと思ふと、その吉野にも顏を見せたくなかつた。
室に籠つたり、臺所へ行つたり、庭に出たり、兎角して日も暮れかゝつた。信吾はそれでも歸つて來ない。夕方から一緒に盆踊を見に行く筈だつたのだが。
晩餐の時、媒介者《なかうど》が今夜泊るのだと叔母から話された。信吾は全く暗くなつても歸らぬ。母お柳の勸めで、兄とは町へ行つて逢ふことにして、靜子は吉野と共に妹達や下女を伴れて踊見物に出ることになつた。
二
丁度鶴飼橋へ差掛つた時、圓い十四日の月がゆら/\と姫神山の上に昇つた。空は雲一片なく穩かに晴れ渡つて、紫深く黝んだ岩手山が、くつきり夕照の名殘の中に浮んでゐる。
仄りと暗い中空には、弱々しい星影が七つ八つ、青ざめて瞬いてゐた。月は星を呑んで次第/\に高く上る。町からはもう太鼓の響が聞え出した。
たとへ何を言つたとて妹共には解る筈がない。吉野と肩を並べて歩みを運ぶ靜子の心は、言ふ許りなく動悸《ときめ》いてゐた。家には媒介者《なかうど》が來てゐる。松原との縁談は靜子の絶對に好まぬ所だ。その話の成行《なりゆき》が恁《か》うして歩いてゐ乍らも心に懸らぬではない。否、それが心に懸ればこそ、靜子は種々の思ひを胸に疊んだ。
「若し此人(吉野)が自分の夫になる人であつたら! 否、若し此人が現在自分の夫であつたら!」
月明かに靜かな四邊の景色と、遠い太鼓の響とは、靜子の此心持に適合《ふさは》しかつた。靜子は妹共の罪なき言葉に吉野と聲を合して笑ひ乍ら、何がなき心強さと嬉しさを禁ずることが出來なかつた。よし何事が次いで起らなかつたにしても、靜子は此夜の心持を忘れる事は出來ぬであらう。
松原からの縁談は、その初め、當の對手の政治に對する嫌惡の情と、自分が其人の嫂であつたことに就ての、道徳的な考へやら或る侮辱の感やらで、靜子は兄に手頼つて破談にしようとした。が、一度吉野を知つてからの靜子は、今迄の理由の外に、も一つ、何と自分にも解らぬが、兎にも角にも心の底に強い頼みが出來た。
丁度橋の上に來た時である。
『此處で御座いましたわねえ、初めてお目に懸つたのは!』
恁《か》う靜子は慣々しく言つてみた。月は其夢みる樣な顏を照した。
『然うでしたねえ!』と吉野は答へた。そして、何か思出した樣に少し俯向《うつむ》いて默つた。
その態度は、屹度あの時の事を詳しく思ひ出してるのだと靜子に思はせた。靜子も強ひて其時の事を思ひ出して見た。二人が今、互ひに初めて逢つた時を思ひ出してるといふ感が、女の心に言ふ許りなき滿足を與へた。
が、吉野の胸にあつたのは其事ではなかつた。渠は、信吾が屹度智惠子の家にゐると考へた。そして今自分らが訪ねて行つたら、何と信吾が嘘を吐いて、夕方までに歸らなかつた申譯をするだらうと想像してゐた。
町に入ると、常ならぬ華やかな光景が、土地慣れぬ吉野の目に珍しく映つた。家々の軒には、怪し氣な畫や「豐年萬作」などの字を書いた古風の行燈や提灯が掲げてある。街路の兩側には、門々に今を盛りと樺火が焚いてある。其赤い火影が、一筋町の賑ひを樂しく照して、晴着を飾つた往來《ゆきゝ》の人の顏が何れも/\醉つてる樣に見える。
町は樂し氣な密話《さゞめき》に充ちた。寄太皷の音は人々の心を誘ふ。其處此處に新しい下駄を穿いた小兒らが集つて、樺火で煎餅などを燒《や》いてゐる。火が爆《は》ぜて火花が街路に散る。年長な小兒らは勢ひ込んで其列んだ火の上を跳ねてゆく。丁度夕餉の濟んだところ。赤い着物を着て女兒共は打ち連れて太皷の音を的にさゞめいて行く。
町も端れの智惠子の宿の前には、
前へ
次へ
全51ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング