、吊橋は心持搖れ出した。
 洋服姿の俥上の男は、麥藁帽の頭を俯向けて、膝の上に寫生帖《スケッチブック》に何やら書いてゐる――一目見て靜子は、兄の話で今日あたり來るかも知れぬと聞いた吉野が、この人だと知つた。好摩《かうま》午後三時着の下り列車で着いて、俥だから線路傳ひの近道は取れず、態々本道を澁民の町へ廻つて來たものであらう。智惠子も亦、話は先刻聞いたので、すぐそれと氣が附いた。
『お孃樣、お孃樣|許《とこ》のお客樣を乘せて來ただあ。』と、車夫の元吉は高い聲で呼びかけ乍ら轅を止めて、
『あれがはあ、小川樣のお孃樣でがんす。』と、車上の人に言ふ。顏一杯に流れた汗を小汚い手拭でブルリと拭つた。
 智惠子は、自分がその小川家の者でない事を現す樣に、一足後へ退《さが》つた。その時、傍の靜子の耳の紅くなつてゐた事に氣がついた。
『あ、然うですか。』と、車上の人は鉛筆を持つた手で帽子を脱《と》つて、
『僕は吉野滿太郎です。小川が――小川君が居ませうか?』と武骨な調子でいふ。
『は。』と靜子は塞《つま》つた樣な聲を出して、『あの、今日あたりお着き遊ばすかも知れないと、お噂致して居りました。』
『然うですか。ぢや手紙が着いたんですね?』と親しげな口を利いたが、些と俯向加減にして立つてゐる智惠子の方を偸《ぬす》み視て、
『失禮しました、俥の上で。……お先に。』と挨拶する。
『私こそ……。』と靜子は初心《うぶ》らしく口の中で言つて頭を下げた。
『どつこいしよ。』と許り、元吉は俥を曳出す。二人は其後を見送つて呆然《ぼんやり》立つてゐた。
 吉野は、中背の、色の淺黒い、見るから男らしく引緊つた顏で、力ある聲は底に錆を有つた。すぐ目に附くのは、眉と眉の間に深く刻まれた一本の皺で烈しい氣象の輝く眼は、美術家に特有の何か不安らしい働きをする。
 俥が橋を渡り盡すと、路は少し低くなつて、繁つた楊柳《やなぎ》の間から、新らしい吉野の麥藁帽が見える。橋はその時まで、少し搖《ゆ》れてゐた。
『私、甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》に困つたでせう、這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》扮裝《なり》をしてゐて!』と靜子は初めて友の顏を見た。
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4
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