葉が風もなく、四邊《あたり》を香《にほ》はした。

      八

 仄暗《ほのくら》い杜を出ると、北上川の水音が俄かに近くなつた。
『貴女《あなた》は小説はお嫌ひですか?』と、信吾は少し唐突に問うた。其の時はもう肩も摩れ/\に並んでゐた。
『一概には申されませんけれど、嫌ひぢや御座いません。』と落着いた答へをして閃《ちら》と男の横顏を仰いだが、智惠子の心には妙に落着がなかつた。前方の人達からは何時しか七八間も遲れた。後ろからは清子と靜子が來る。其跫音も何うやら少し遠ざかつた。そして自分が信吾と並んで話し乍ら歩く……何となき不安が胸に萠《きざ》してゐた。
 立留つて後の二人を待たうかと、一歩毎に思ふのだが、何故かそれも出來なかつた。
『あれはお讀みですか、風葉の「戀ざめ」は?』と信吾はまた問うた。
『あの發賣禁止になつたとか言ふ……?』
『然《さ》うです。あれを禁止したのは無理ですよ。尤もあれだけじや無い、眞面目な作で同じ運命に逢つたのが隨分ありますからねえ。折角拵へた御馳走を片端から犬に喰はれる樣なもんで……ハハヽヽ。「戀ざめ」なんか別に惡い所が無いぢやないですか?』
『私はまだ讀みません。』
『然うでしたか。』と言つて、信吾は未だ何か言はうと唇を動かしかけたが、それを罷《や》めてニヤ/\と薄笑を浮べた。月を負うて歩いてるので、無論それは女に見えなかつた。
 信吾は心に、何ういふ連想からか、かの「戀ざめ」に描かれてある事實――否あれを書く時の作者の心持、否、あれを讀んだ時の信吾自身の心持を思出してゐた。
 五六歩|歩《ある》くと、智惠子の柔かな手に、男の手の甲が、木の葉が落ちて觸る程輕く觸つた。寒いとも温《あつた》かいともつかぬ、電光の樣な感じが智惠子の腦を掠めて、體が自ら剛くなつた。二三歩すると又觸つた。今度は少し強かつた。
 智惠子は其手を口の邊へ持つて來て輕く故意とらしからぬ咳をした。そして、礑《はた》と足を留めて後ろを振返つた。清子と靜子は肩を並べて、二人とも俯向いて、十間も彼方から來る。
 信吾は五六歩歩いて、思切り惡さうに立留つた。そして矢張り振返つた。目は、淡く月光を浴びた智惠子の横顏を見てゐる。コツ/\と、杖《ステッキ》の尖《さき》で下駄の鼻を叩いた。其顏には、自ら嘲る樣な、或は又、對手を蔑視《みくび》つた樣な笑が浮んでゐた。
 清子と靜子は、霎
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