心をした。そして、十八の歳に師範學校の女子部に入つて、去年の春首尾克く卒業したのである。兄は今青森の大林區署に勤めてゐる。
 父は嚴しい人で、母は優しい人であつた。その優しかつた母を思出す毎に智惠子は東京が戀しくてならぬ。住居は本郷の弓町であつた。四室か五室の廣からぬ家ではあつたが、……玄關の脇の四疊が智惠子の勉強部屋にされてゐた。衡門《かぶきもん》から筋向ひの家に、それは/\大きい楠が一株、雨も洩さぬ程繁つた枝を路の上に擴げてゐた。――靜子に訊けば、それが今猶殘つてゐると言ふ。
『那の邊の事を、怎《ど》う變つたか詳しく小川さんの兄樣に訊いて見ようか知ら!』とも考へてみた。そして、『訊いた所で仕方がない!』と思返した。
 と、門口に何やら聲高に喋る聲が聞えた。洗濯の音が止んだ。『六錢。』といふ言葉だけは智惠子の耳にも入つた。

      二

 すると、お利代の下駄を脱ぐ音がして、輕い跫音《あしおと》が次の間に入つた。
 何やら探す樣な氣勢《けはひ》がしてゐたが、鏗《がちや》りと銅貨の相觸れる響。――霎時《しばし》の間何の物音もしない、と老女の枕元の障子が靜かに開いて、窶《やつ》れたお利代が顏を出した。
『先生、何とも……。』と小聲に遠慮し乍ら入つて來て、『あの、これが來まして……。』と言ひにくさうに膝をつく。
『何です!』と言つて、見ると、それは厚い一封の手紙、(濱野お利代殿)と筆太に書かれて、不足税の印が捺してある。
『細かいのが御座んしたら、あの、一寸二錢だけ足りませんから……。』
『あ、然う?』と皆まで言はせず輕く答へて、智惠子はそれを出してやる。お利代は極り惡氣にして出て行つた。
 智惠子は不圖針の手を留めて、『子供の衣服《きもの》よりは、お錢で上げた方が好かつたか知ら!』と、考へた。そして直ぐに、『否《いゝや》、まだ有るもの!』と、今しも机の上に置いた財布に目を遣つた。幾何かの持越と先月分の俸給十三圓、その内から下宿料や紙筆油などの雜用の拂ひを濟まし、今日反物を買つて來て、まだ五圓許りは殘つてるのである。
 お利代は直ぐ引返して來て、櫛卷にした頭に小指を入れて掻き乍ら、
『眞箇《ほんたう》に何時も/\先生に許り御迷惑をかけて。』と言つて、潤みを有つた大きい眼を氣の毒相に瞬く。左の手にはまだ封も切らぬ手紙を持つてゐた。
『まあ其※[#「麾」の「毛」にかえ
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