ぐ歸つた。そして、歸途《かへり》に買つて來た――一圓某の安物ではあるが――白地の荒い染の反物を裁《た》つて、二人の單衣を仕立に掛つた。
障子を開けた格子窓の、直ぐ下から青い田が續いた。其青田を貫いて、此家の横から入つた寺道が、二町許りを眞直に、寶徳寺の門に隱れる。寺を圍んで蓊鬱《こんもり》とした杉の木立の上には、姫神山が金字塔《ピラミット》の樣に見える。午後の日射は青田の稻のそよぎを生々照して、有るか無きかの初夏の風が心地よく窓に入る。壁一重の軒下を流れる小堰《こぜき》の水《みづ》に、蝦を掬ふ子供等の叫び、さては寺道を山や田に往き返りの男女の暢氣《のんき》の濁聲《にごりごゑ》が手にとる樣に聞える――智惠子は其聞苦しい訛にも耳慣れた。去年の秋轉任になつてから、もう十ヶ月を此村に過したので。
隣室からは、床に就いて三月にもなる老女の、幽かな呻き聲が聞える。主婦《あるじ》のお利代は盥を門口に持出して、先刻《さつき》からパチャ/\と洗濯の音をさしてゐる。智惠子は白い布《きれ》を膝に披げて、餘念もなく針を動かしてゐた。
子供の衣服《きもの》を縫ふ――といふ事が、端なくも智惠子をして亡き母を思出させた。智惠子は箪笥の上から、葡萄色天鵞絨の表紙の、厚い寫眞帖を取下して、机の上に展《ひら》いた。
何處か俤の肖通《にかよ》つた四十許りの品の良い女の顏が寫されてゐる。智惠子はそれに懷し氣な眼を遣り乍ら針の目を運んだ。亡き母!……智惠子の身にも悲しき追憶はある。生れたのは盛岡だと言ふが、まだ物心附かぬうちから東京に育つた……父が長いこと農商務省に技手をしてゐたので……十五の春御茶の水女學校に入るまで、小學の課程は皆東京で受けた。智惠子が東京を懷しがるのは、必ずしも地方に育つた若い女の虚榮と同じではなかつた。十六の正月、父が俄かの病で死んだ。母と智惠子は住み慣れた都を去つて、盛岡に歸つた。――唯一人の兄が縣廳に奉職してゐたので。――浮世の悲哀といふものを、智惠子は其の時から知つた。間もなく母は病んだ。兄には善からぬ行ひがあつた。智惠子は學校にも行けなかつた。教會に足を入れ初めたのは其頃で。
長患ひの末、母は翌年になつて遂に死んだ。程なく兄は或る藝妓を落籍《ひか》して夫婦になつた。智惠子は其賤き女を姉と呼ばねばならなかつた。遂に兄の意に逆つて洗禮を受けた。
智惠子は堅くも自活の決
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