『美人だね。』と信吾も笑つた。
『顏許りぢやないわ。』と靜子は眞面目な眼をして、『それや好い方よ心も。私姉樣の樣に思つてるわ。』と言つて、熱心に智惠子の性格の美しく清い事、其一例として、濱野(智惠子の宿)の家族の生活が殆んど彼女の補助によつて續けられてゐる事などを話した。
信吾は其話を、腹では眞面目に、表面はニヤ/\笑ひ乍ら聽いてゐた。
二人が鶴飼橋へ差掛つた時、朱盆の樣な夏の日が岩手山の巓《みね》に落ちて、夕映の空が底もなく黄橙色《だい/\いろ》に霞んだ。と、丈高い、頭髮をモヂャ/\さした、眼鏡をかけた一人の青年が、反對の方から橋の上に現れた。靜子は、
『アラ昌作叔父さんだわ。』と兄に※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]く。
『オーイ。』と青年は遠くから呼んだ。
『迎ひに來た。家ぢや待つてるぞ。』
言ふ間もなく踵を返して、今來た路を自暴《やけ》[#ルビの「やけ」は底本では「や」]に大胯で歸つて行く。信吾は其後姿を見送り乍ら、愍れむ樣な輕蔑した樣な笑ひを浮べた。靜子は心持眉を顰めて、『阿母さんも酷《ひど》いわね。迎ひなら昌作さんでなくたつて可いのに!』と獨語《ひとりごと》の樣に呟《つぶや》いた。
其三
一
曉方《あけがた》からの雨は午《ひる》少し過ぎに霽《あが》つた。庭は飛石だけ先づ乾いて、子供等の散らかした草花が生々としてゐる。池には鯉が跳ねる。池の彼方が芝生の築山、築山の眞上に姿優しい姫神山が浮んで空には斷れ/″\の白雲が流れた。――それが開放《あけはな》した東向の縁側から見える。地上に發散する水蒸氣が風なき空氣に籠つて、少し蒸す樣な午後の三時頃。
『それで何で御座いますか、えゝ、お食事の方は? 矢張お進みになりませんですか?』と言ひ乍ら、加藤は少し腰を浮かして、靜子が薦める金盥の水で眞似許り手を洗ふ。今しもお柳の診察――と言つても毎日の事でホンの型許り――が濟んだところだ。
『ハア、怎うも。……それでゐて恁う、始終何か喰べて見たい樣な氣がしまして、一日口|按排《あんばい》が惡う御座いましてね。』とお柳も披《はだか》つた襟を合せ、片寄せた煙草盆などを醫師の前に直したりする。
痩せた、透徹るほど蒼白い、鼻筋の見事に通つた、險のある眼の心持吊つた――左褄とつた昔を忍ばせる細面の小造りだけに遙《ずうつ》と若く見えるが、四十を越
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