て、『濟まなかつたわ清子樣、眞箇《ほんと》に私……今迄知らなかつたんですもの。』と言うなり、清子の膝に泣伏した。
『何も其樣に!』と清子も泣聲で言つて、そして二人は相抱いて暫く泣いた。
『詰らないわね、女なんて!』と、稍あつて靜子はしみじみ言ふ。
『眞箇《ほんと》ねえ』と清子は應じた。
 二人の親しみは増した。
 九月が來た。
 信吾の不意に發《た》つて以來、富江は長い手紙を三四度東京に送つた。が、葉書一本の返事すらない。そして富江は不相變《あひかはらず》何時でも噪《はしや》いでゐる。
 肺を病んだ五尺足らずの山内は、到頭八月の末に盛岡に歸つて了つた。聞けば智惠子吉野と同じ病院に入つたといふ。
 濱野の家――智惠子の宿では、祖母の病が惡くもならず癒《よ》くもならぬ。
 お利代は一生懸命裁縫に勵んでゐる。時には智惠子から習つた讃美歌を、小聲で小供らに歌つて聞かしてる事もある。村では好からぬ噂を立てた。それはお利代も智惠子に感化《かぶ》れて、耶蘇信者になつたので、早く祖母の死ぬ事を毎晩神に祈つてゐるといふので。――そして、祖母の死ぬのを待つて凾館の先の夫の許へ行くのだ、と傳へられた。
 快く晴れた或日の午前であつた。昌作は浮かぬ顏をして町を歩いてゐた。そして郵便局の前へ來ると、懷から二枚の葉書を出してポストに入れた。――昌作は米國に行くことも出來ず、明日發つて十里許りの山奧の或小學校の代用教員に赴任することになつた。――その葉書は盛岡の病院なる智惠子と山内に宛てたもの。山内には手短く見舞の文句と自身の方の事を書いたが、智惠子への一枚には、氣取つた字で歌一首。
『秋の聲まづ逸早く耳に入るかゝる性《さが》有《も》つ悲むべかり』
 澁民村に秋風が見舞つた。

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附記。この一篇は作者が新聞小説としての最初の試作なりき。囘を重ぬる六十囘。時歳末に際して豫期の如く事件を發展せしむる能はず、茲に一先づ擱筆するに到れるは作者の多少遺憾とする所なり。他日若し幸ひにして機會あらば、作者は稿を改めて更に智惠子吉野を主人公としたる本篇の續篇を書かむと欲す。
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底本:「石川啄木作品集 第三巻」昭和出版社
   1970(昭和45)年11月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。

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