告げた。
 八月も末になつた。そして、靜子は新しく病を得た。
 靜子の縁談は本人の希望通りに破れて了つた。この事で最も詰らぬ役を引受けたのは例の叔母で、月の初めに來た時、お柳からの祕かの依頼で、それとなく松原家を動かし、媒介者《なかうど》を同伴して來るまでに運んだのであるが、來て見るとお柳の態度は思ひの外、對手の松原中尉の不品行(志郎から聞いた)を楯に、到頭破談にして了つた。
 靜子は、何處といふことなく體が良くなかつた。加藤は神經衰弱と診察した。そして、毎日散歩ながら自分で藥取に行く樣に勸めた。で、日毎に午前九時頃になると、何がなしに打沈んだ顏をして靜子は、白ハンカチに包んだ藥瓶を下げて町にゆく姿が、鶴飼橋の上に見られた。
 そして靜子は、一時間か二時間、屹度清子と睦しく話をして歸る。
 或る日の事であつた。二人は醫院の裏二階の瀟洒《さつぱり》した室で、何日もの樣に吉野の噂をしてゐた。
 靜子は怎《ど》うした機會《はずみ》からか、吉野と初めて逢つた時からの事を話し出して、そして、かの寫生帖の事まで仄めかした。
 清子は熱心にそれを聞いてゐた。
『靜子さん。』と清子は、眤《ぢつ》と友の俯向《うつむ》いた顏を見ながら、しんみりした聲で言つた。『私よく知つてるわ。貴女の心を!』
『あら!』と言つて靜子は少し顏を赤めた。『何? 清子さん私の心つて?』
『隱さなくても好かなくつて、靜子[#「靜子」は底本では「清子」]さん?』
『…………』
 默つて俯向《うつむ》いた靜子の耳が燃える樣だ。清子は、少し惡い事を云つたと氣がついて、接穗《つぎほ》なくこれも默つた。
『清子さん。』と、稍あつてから靜子は言つた。其眼は濕んでゐた。『私……莫迦だわねえ!』
『あら其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》! 私惡い事言つて……。』
『ぢやなくつてよ。私却つて嬉しいわ……。』
『…………』
 清子の眼にも涙が湧いた。
『ねえ、清子さん!』と又靜子は鼻白《はなじら》んで言つた。『詰らないわねえ、女なんて!』
『眞箇《ほんと》よ、靜子さん。』と、清子は全く同感したといふ樣に言つて、友の手を取つた。
『然《さ》う思つて、貴女《あなた》も?』と、清子の顏を見るその靜子の眼から、美しい涙が一雫二雫頬に傳つた。
『靜子さん!』と、清子は言つた。『貴女…
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