子を口説いてみた。彼は有らゆる美しい言葉を並べた。女は眤《ぢつ》と俯向《うつむ》いてゐた。
 最後に信吾は言つた。
『智惠子さん、貴女は哀れな僕の述懷を、無論無意味には聞いて下さらないでせうね?』
『…………』
『智惠子さん!』と、情が迫つた樣に聲を顫した。『僕は貴女から何の報酬を望むのではありません。智惠子さん、唯、唯、です、僕は貴女から、僕が常に貴女の事を思つても可《い》いと許して頂けば可いんです、それだけです。それさへ許して頂けば、僕の生涯が明るくなります……。』
『小川さん!』と女は屹《きつ》と顏をあげた。其顏は眉毛一本動かなかつた。『私の樣なものゝことを然《さ》う言つて下さるのはそれや有難う御座いますけれど。』
『は※[#感嘆符疑問符、1−8−78]』
『何卒その事は二度と仰しやつて下さらない樣にお願ひします。』
 信吾は眤《ぢつ》と腕を組んだ。
『失禮な事を申す樣ですが……』
『ウ、……何故でせう?』
『……別に理由はありませんけれど……。』
『あゝ、貴女には僕の切ない心がお解りにならないでせう!』と、さも落膽《がつかり》した樣に言つて、『然しです、何か理由が、然う被仰《おつしや》るからには有らうぢやありませんか? それを話して戴く譯にはいかないんですか?』
『…………』
『智惠子さん! ぼくがこれだけ恥を忍んで言つたのに、理由なくお斷りになるとは餘りです、餘りに侮辱です。』
『ですけれど……』
『そんならです。』と、信吾は今迄の事は忘れて新らしい仇の前にでも出た樣に言つた。其眼は物凄く輝いた。
『僕は唯一つ聞かして頂きたい事があります。智惠子さん、怎《ど》うでせう、聞かして下さいますか?』
『……私の知つてをります事ならそれは……』
『無論御存じの事です。』と信吾は肩を聳かした。『話は全然別の事です。僕は僕の一切を犧牲にして、友人たる貴女と吉野の幸福を祝ひます。』
 智惠子は胸を刺されたやうにピクリとした。然し一寸も動かなかつた。顏色も變へなかつた。
『怎《ど》うです。』と男は更に突込んだ。『貴女は僕の祝ひを享けて下さいますか、それを聞かして下さい。』
『…………』
『僕は今言つた事を凡て取消して、友人としての眞心からお二人の爲に祝ひます。怎《ど》うです、享けて下さいますか?』
『…………』
『何卒享けて下さい!』と信吾は毒々しく迫る。
 智惠子の顏は
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