とは、その月までも屆くかと、風なき空に漂うてゆく。――華やかな舞樂の場から唯一人歸る智惠子は、急に己が宿が厭になつた。
と言つて、足は矢張り宿の方へ動く。送つて來てくれぬ男を怨めしくも思つた。あの人が東京へ歸ると、屹度今夜のことを手紙に書いて寄越すだらうと思つた。そして、二人の間に取交された約束が、唯一生忘るまいといふ事だけなのを思つて、智惠子は今夜といふ今夜、初めて切實に、それだけでは物足らぬことを感じた。智惠子も女である。力強き男の腕に抱かれたら、あはれ、腹の痛みも忘れようものを!
二町許り來る、と智惠子は俄かに足を早めた。不圖、怺《こら》へきれぬ程に便氣を催して來たので。
六
程なく吉野や靜子等も歸路に就いた。信吾には遂に逢はなかつた。吉野は智惠子の病氣の氣に懸らぬではないが、寄つて見る譯にも行かぬ。
それから小一時間も經つた。
富江の宿の裏口が開いて、月影明るい中へヒョクリと信吾が出た。續いて富江も出た。
『好い月!』恁《か》う富江が言つた。信吾は自ら嘲る樣な笑ひを浮べて、些《ち》と空を仰いだが別に興を催した風もない。ハヽヽと輕く笑つた。
太皷の響と唄の聲が聞える、四邊《あたり》は森として、何處やらで馬の強く立髮を振る音。
『一寸、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に濟まさなくたつて可いわよ。』
『疲れた!』と、信吾は低く呟く樣に言つた。
『マ酷《ひど》い! 散々人を虐《いぢ》めて置いて。』
『ハヽヽ。ぢや左樣なら!』
『一寸々々、眞箇《ほんと》よ明日の晩も。』
『ハヽヽ。』と男は又妙に笑つてスタ/\と歩き出す。富江は家へ入つた。
人なき裏路を自棄《やけ》に急ぎながら、信吾は淺猿しき自嘲の念を制することが出來なかつた。少し下向いた其顏は不愉快に堪へぬと言つた樣に曇つた。
『莫迦!』と聲を出して罵つた。それは然し誰に言つたのでもない。
信吾の心が生れてから今日一日ほど動搖した事がない。また今日一日ほど自分で見識を下げたと思つたことはない。彼は智惠子を訪うと、初めは盛んに氣焔を吐いた。現代の學者を糞味噌に罵倒し盡し、言葉を極めて美術家仲間の内幕などを攻撃した。そして甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》話の機會からか、智惠
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