夏も初の鮮かな日光が溢れる樣に流れた。先刻《さつき》まで箒を持つて彷徨《さまよ》つてゐた、年老つた小使も何處かに行つて了つて、隅の方には隣家の鷄が三羽、柵を潜つて來てチョコ/\遊び※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐる。
 と、門から突當りの玄關が開《あ》いて、女教師の日向智惠子はパッと明るい中へ出て來た。其拍子に、玄關に隣つた職員室の窓から賑やかな笑聲が洩れた。
 クッキリとした、輪廓の正しい、引緊つた顏を眞正面に西日が照すと切《きれ》のよい眼を眩しさうにした。紺飛白《こんがすり》の單衣に長過ぎる程の紫の袴――それが一歩毎に日に燃えて、靜かな四邊の景色も活きる樣だ。齡は二十一二であらう。少し鳩胸《はとむね》の、肩に程よい圓みがあつて、歩き方がシッカリしてゐる。
 門を出て右へ曲ると、智惠子は些《ちつ》と學校を振返つて見て、『氣障《きざ》な男だ。』と心に言つた。故もない微笑がチラリと口元に漂ふ。
 家々の前の狹い淺い溝には、腐れた水がチョロ/\と流れて、縁に打込んだ杭が朽ちて白い菌が生えた。屋根が低くて廣く見える街路には、西並の家の影が疎《まばら》な鋸の齒の樣に落ちて、處々に馬を脱《はづ》した荷馬車が片寄せてある。鷄が幾群も、其下に出つ入りつ、零《こぼ》れた米を土埃の中に漁つてゐた。會つて頭を下げる小兒等に、智惠子は一々笑ひ乍ら會釋を返して行く。
 一人、煮絞めた樣な淺黄の手拭を冠つて、赤兒を背負つた十一二の女の兒が、とある家の軒下に立つて妹らしいのと遊んでゐたが、智惠子を見ると、鼻のひしやげた顏で卑しくニタ/\笑つて、垢だらけの首を傾《かし》げる。智惠子は側へ寄つて來た。
『先生《しえんせえ》!』
『お松、お前また此頃學校に來なくなつたね?』と、柔かな物言ひである。
『これ。』と背中の兒を搖《ゆすぶ》つて、相變らずニタ/\と笑つてる。子守をするので學校に出られぬといふのだらう。
『背負《おぶ》つてでも可《い》いからお出なさい。ね、子供の泣く時だけ外に出れば可いんだから。』
 お松はそれには答へないで、『先生《しえんせえ》ア今日お菓子喰つてらけな。皆してお茶飮んで……。』
『ホホヽヽ。』と智惠子は笑つた。『何處から見てゐたの?……今日はお客樣が被來《いらし》たから然《さ》うしたの。お前さんの家でもお客さんが行つたらお茶を出すんでせう?』
『出さねえ。』

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