何か恐怖に囚はれてゐて、手に手に小い螢籠を携へて、密々《ひそ/\》と露を踏んでゆく。譯もなく歔欷《すゝりあ》げてゐる新坊を、吉野は確乎《しつか》と懷に抱いて、何か深い考へに落ちた態で、その後に跟《つ》いた。
 智惠子は、片手に濡れた新坊の着物を下げて、時々心配顏に子供の顏を覗き乍ら、身近く吉野と肩を並べた。胸は感謝の情に充溢《いつぱい》になつてゐて、それで、口は餘り利けなかつた。
『阿母樣《おつかあ》!』と、新坊は思い出し樣に時々呼んで、わアと力なく泣く。
『もう泣かないの、今|阿母樣《おつかさん》の處へ伴れてつて下さるわ。ねえ、新坊さん、もう泣かないの。』と、智惠子は横合から頻りに慰める。
『眞箇《ほんと》に私、……貴方《あなた》が被來《いらつしや》らなかつたら、私|奈何《どう》したで御座いませう!』
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事はありません。』
『だつて私、萬一の事があつたら、宿の小母さんに甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》にか……』
『日向|樣《さん》!』と吉野は重々しい調子で呼んだ。『僕は貴女に然《さ》う言はれると、心苦しいです。誰だつてあの際あの場處に居たら、あれ位の事をするのは普通《あたりまへ》ぢやありませんか?』
『だつて、此兒の生命《いのち》を救けて下すつたのは、現在貴方ぢや御座いませんですか!』
『日向|樣《さん》!』と吉野は又呼んだ。『も少し眞摯《まじめ》に考へて見ませう……若しあの際、彼處《あそこ》に居たのが貴女でなくて別の人だつたらですね、僕は同じことを行《や》るにしても、もつと違つた心持で行《や》つたに違ひない。』
『まあ貴方《あなた》は、……』
『言つて見れば一種の僞善だ!』
 然《さ》う言ふ顏を、智惠子は暗ながら眤《ぢつ》と仰いだ。何か言はうとしても言へなかつた。
『僞善です!』と、男は自分を叱り附ける樣に重く言つた。渠は今、自分の心が何物かに征服される樣に感じてゐる。それから脱れ樣として恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》事を言ふのだ。『僞善です! 人が善といふ名の附く事をする、その動機は二つあります。一つは自分の感情の滿足を得る爲め、畢竟自分に甘える爲め、も一
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