學校の門だ。つと入つた。
 職員室の窓が開いて、細い竿釣が一間許り外に出てゐる。宿直の森川は、シャツ一枚になつて、一生懸命釣道具を弄《いぢく》つてゐた。
 不圖顏を上げると、
『オヤ、日向さん、何時お歸りになりました?』
『は、あの、昨日夕方に。』と、外に立つて頭を下げる。洗ひ髮がさらりと肩から胸へ落つる。智惠子は、うるさい樣にそれを手で後ろにやつた。
『面白かつたでせう? さ、まあお上りなさい。』
『否《いゝえ》、あの。』と息が少し切れる。『あの私宛の手紙でも參つてゐませんでせうか?』
『奈何《どう》でしたか! あ、來ませんよ、神山樣の方の間違です。まあお上りなさい。』
『は有難う御座います。一寸あの、一寸、後ろの山へ行つて見ますから。』
『山へ? 茸狩はまだ早いですよ。ハヽヽ。ま可いでせう?』
『は、何れ明日でも。』と行掛ける。
『あ、日向樣、貴女《あなた》に少しお願ひがありますがねえ。』
『何で御座いますか?』
『何有《なあに》眞《ほん》の些とした事ですがね。』と、森川は笑つてゐる。
『何で御座いますか、私に出來る事なら……。』と智惠子は何時になく焦《もど》かし相な顏をした。
『出來る事ですとも。』また笑つて、『その何ですよ、過日《こなひだ》、否《いや》昨日か、神山樣にも一日お願ひしたんですがね。その、私は鮎釣に行きますから、御都合の可い時一日學校に被來《いらつしや》つて下さいませんか?』
『は、可《よ》う御座いますとも。何日《いつ》でも貴方の御出懸けになる時は、あの大抵の日は小使をお寄越し下されば直ぐ參ります。』
『然うですか。ぢやお願ひ致しますよ、濟みませんが。』
『何日でも……。』と言つて智惠子は、足早に裏の方に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた。
 裏は直ぐ雜木の山になつて、下暗い木立の奧がこんもりと仰がれる。校舍の屋根に被《かぶ》さる樣になつた青葉には、楢もあれば、栗もある。鮮やかな色に重なり合つて。
 便所の後ろになつてゐる上り口から、智惠子はスタスタと坂を登つた。
 木立の中から、心地よく濕つた風が顏へ吹く。と、そのこんもりした奧から樂しさうな晝杜鵑《ひるほとゝぎす》の聲。
 聲は小迷《さまよ》ふ樣に、彼方此方《あちこち》、梢を渡つて、若き胸の轟きに調べを合せる。
 智惠子は躍る樣な心地になつて、つと青葉の下蔭に潜り込んだ。

   
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