あ日向先生、何日お歸りになりましたの? さ何卒《どうぞ》。』
『は有難う。昨日夕方に歸りました許りで。』
『お樂みでしたわねえ。さ何卒お上り下さいまし、……あの小川さんのお客樣も被來《いらし》てますから。』
『は?』と智惠子は、脱ぎかけた下駄を止めた。
『吉野さんとか被仰る、畫をお描きになる……貴女にも盛岡でお目にかゝつたとか被仰つてで御座いますよ。』
『あの、吉野さんが?』
『え。宅が小川さんで二三度お目にかゝりました相で、……昌作さんとお二人。ま何卒《どうぞ》。』
『は有難う。あのう……』と言ひ乍ら智惠子は懷から例の手紙を取出して、手短に其由來を語つて清子に渡した。
『ま然うでしたか。それは怎うも。……それは然うと、さ、さ。』と。手を引く許りにする。
『あの一寸學校に行つて見なければなりませんから、何れ後で。』
『あら、日向樣、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]貴女……。』と、清子が捉へる袂を、スイと引いて、
『眞箇《ほんと》よ、奧樣。何れ後で。』
 智惠子は逃げる樣にして戸外に出た、と、忽ち顏が火の樣に熱つて、恐ろしく動悸がしてるのに氣がついた。

      二

 加藤の玄關を出た智惠子は、無意識に足が學校の方へ向つた。莫迦に胸騷ぎがする。
「何故|那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》に狼狽《うろた》へたらう?」恁う自分で自分に問うて見た。
「何故那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に狼狽《うろた》へたらう? 吉野さんが被來《いらしつ》てゐたとて! 何が怖かつたらう! 清子さんも可笑しいと思つたであらう! 何故那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に狼狽《うろたへ》たらう? 何も譯が無いぢやないか!」
 理由は無い。
 智惠子は一歩毎に顏が益々上氣して來る樣に感じた。何がなしに、吉野と昌作が後ろから急ぎ足で追驅けて來る樣な氣がする。それが、一歩々々に近づいて來る……
 其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事は無い、と自分で譴《たしな》めて見る、何時しか息遣ひが忙しくなつてゐる。
 取留めもなく氣がそはついてるうちに歩くともなくもう
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