やね。……とまあ言つて見たんさ、我身に引較べてね。』
『ハハヽヽ。君にも似合はんことを言ふぢやないか。』とゴロリ横になる。
 其處へ、庭に勢ひのいゝ下駄の音がして、昌作が植込の中からヒョックリと出て來た。今しも町から歸つて來たので。
『やあ、お歸りになりましたな。』と吉野に聲をかける。
『否、も少し先に。今日も貴方は鮎釣でしたか?』
『否《いゝえ》。』と無造作に答へて縁側に腰を掛けた。『吉野さん、貴方、日向さんと同じ汽車でしたらう?』
『え?』と靜子が聞耳を立てる。
『然う、然う。』と、吉野は今迄忘れてゐたと言つた樣に言つて、靜子の方に向いた。『それ、過日《こなひだ》橋の上に貴女と二人立つてゐた方ですね。あの方と今日同じ汽車に乘りましたよ。』
『あら智惠子さんと。然うでしたか! よくお解りになりましたね。』と莞爾《につこり》、何氣なく言つた。
『否《いや》その、何です、今話した渡邊の家で紹介されたんです。渡邊の妹君《シスタア》と親友なんださうで、偶然同じ家に泊つた譯なんです。』と、吉野は急しく眼をぱちつかせ乍ら、無意識に煙草に手を出す。
『オヤ然うでしたの!』
『然うかい!』と信吾も驚いて、『それは奇遇だつたな。實に不思議だ。』
『別段奇遇でも無からうがね。唯逢つただけよ。』と、吉野は顏にかゝる煙草の煙に大仰《おほぎやう》に眉を寄せる。
『昌作さんは何ですか、日向さんと逢つて來たの?』と信吾が横になつた儘で問うた。
『否《いや》。歸つて來た所を遠くから見ただけだ。』
『よつぽど遠くからね? ハヽヽ。』
 昌作はムッとした顏をして、返事はせずに、吉野の顏色を覗つた。
 然うしてる所へ、母屋の方には賑かな女の話聲。下女が前掛で手を拭きながらバタ/\驅けて來て、[#「來て、」は底本では「來て」]
『若旦那樣、お孃樣、板垣樣の叔母樣が盛岡からお出《で》アンした。』
『アラ今日|被來《いらしつ》たの。明日かと思つたら。』と、靜子は吉野に會釋して怡々《いそ/\》下女の後から出て行く。
『父の妹が泊懸《とまりがけ》に來たんだ。一寸行つて會つてくるよ。』
と信吾も立つた。昌作は何時の間にか居ない。
 吉野は眉間の皺を殊更深くして、ぢつと植込の邊に瞳を据ゑてゐた。

   其八

      一

 智惠子は渡邊の家に一泊して、渡邊の妹の久子といふのと翌一日大澤の温泉に着いたのであつ
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