、富江は一人高笑ひをした。そして『書《ほん》はね、後で誰かに屆けさせますよ。』
 一時間程經つて、昌作は、來た時の樣にブラリと、帽子も冠らず、單衣の兩袖を肩に捲くり上げて、長い體を妙に氣取つて、學校の門を出た。
 そして川崎道の曲角まで來た時、二三町彼方から、深張りの橄欖色《おりいぶいろ》の傘をさした、海老茶の袴を穿いた女が一人、歩いて來るのに目をつけた。『ハハア、歸つて來たナ。』と呟いて、足を淀めたが、ついと横路へ入る。
 三日前に畫家の吉野と同じ汽車に乘合せて、大澤温泉に開かれた同級會へ行つた智惠子は、今しも唯一人、町の入口まで歸つて來た。

      三

 小川家の離室《はなれ》には、畫家の吉野と信吾とが相對してゐる。吉野は三十分許り前に盛岡から歸つて來た所で、上衣を脱ぎ、白綾の夏|襯衣《ちよつき》の、その鈕まで脱《はづ》して、胡座《あぐら》をかいた。
 その土産らしい西洋菓子の凾を開き茶を注《つ》いで、靜子も其處に坐つた。母屋の方では、キヤッ/\と妹共の騷ぐのが聞える。
『だからね。』と吉野は其友渡邊の噂を續けた。
『僕は中學の畫の教師なんかやるのが抑も愚だと言つて遣《や》つたんだ。奴だつて學校にゐた時分は夢を見たものよ。尤も僕なんかより遙《ずつ》と常識的な男でね。靜物の寫生なんかに凝つたものだ。だが奴が級友の間でも色彩の使ひ方が上手でね、活きた色彩を出すんだ。何色彩《なにいろ》を使つても習慣《コンベンション》を破つてるから新しいんだよ。何時かの展覽會に出した風景と靜物なんか黒人《くろうと》仲間ぢや評判が好かつたんだよ。其奴が君、遊びに來た中學生に三宅の水彩畫の手本を推薦してるんだからね。……僕は悲しかつたよ。否《いや》悲しいといふよりは癪に障つたよ。何といふのかな、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]具合で到頭埋もれて了ふのを。平凡の悲劇とでも言ふかな……。』
『だつて君。』と信吾は委細呑込んだと言つた樣な顏をして、『其人にだつて家庭の事情てな事が有らあな。一年や二年中學の教師をした所で、畫才が全然滅びるつて事も無からうさ。』
『それがよ、家庭の事情なんて事がてんで可《よ》くない。生活問題は誰にしろ有るさ。然し藝術上の才能は然うは行かない。其奴が君、戰つても見ないで初めつから生活に降參するなんて、意氣地が無い
前へ 次へ
全101ページ中54ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング