を行く松藏の後姿は、荷が重くて屈んでるから、大きい鞄に足がついた樣だ。
稍あつてから信吾は、『あの問題は、一體|奈何《どう》なつてるんだい?』と妹を見返つた。
『あの問題ツて、……松原の方?』と兄の顏を仰ぐ。
『あゝ。餘程切迫してるのかい?』
『さうぢや無いんですれど[#「ですれど」はママ]……。』
『手紙の樣子ぢや然う見えたんだが。』
『さうぢや無いんですけど。』と繰返して、『怎《どう》せ貴兄《あなた》の居る間に、何とか決《き》めなけやならない事よ。』
『然うか、それで未だ先方には何とも返事してないんだね?』
『えゝ。兄樣の歸つてらしやるのを待つてたんだわ。』
信吾は少し言ひ淀んで、『昨日|發《た》つ時にね、松原君が上野まで見送りに來て呉れたんだ……。』
靜子は默つて兄の顏を見た。松原政治といふのは、近衞の騎兵中尉で、今は乘馬學校の生徒、靜子の縁談の對手なのだ。
四
『發《た》つ四五日前にも、』と信吾は言葉を次いだ。『突然|訪《や》つて來て大分|夜更《よふけ》まで遊んで行つた。今度の問題に就いちや別段話もなかつたが、(俺も二十七ですからねえ。)なんて言つてゐたつけ。』
靜子は默つて聞いてゐた。
『休暇で歸るのに見送りなんか爲《し》て貰はなくつても可いと言つたのに、態々俥でやつて來てね。麥酒《ビール》や水菓子なんか車窓《まど》ン中へ抛《はふ》り込んでくれた。皆樣に宜敷《よろしく》つて言つてたよ。』
『然《さ》うでしたか。』と氣の無さ相な返事である。
『皆樣にぢやない靜さんにだらうと、餘程言つてやらうかと思つたがね。』
『まあ!』
『ナニ唯思つた丈さ。まさか口に出しはしないよ。ハッハハ。』
この松原中尉といふのは、小川家とは遠縁の親戚で、十里許りも隔つた某村の村長の次男である。兄弟三人皆軍籍に身を置いて、三男の狷介と云ふのが靜子の一歳下の弟の志郎と共に士官候補生になつてゐる。
長男の浩一は、過る日露の役に第五聨隊に從つて、黒溝臺の惡戰に壯烈な戰死を遂げた。――これが靜子の悲哀である。靜子は、女學校を卒へた十七の秋、親の意に從つて、當時歩兵中尉であつた此浩一と婚約を結んだのであつた。
それで翌年の二月に開戰になると、出征前に是非盃事をしようと小川家から言出した。これは浩一が、生きて歸らぬ覺悟だと言つて堅く斷つたが、靜子の父信之の計ひで、二月
前へ
次へ
全101ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング