てよ。其方ンなら私も知つてるわ。……その吉野さんのお書きになつたの?』
『吉野が?』と妹の顔を見て、『彼奴《あいつ》の詩は道楽よ。時々雑誌に匿名で出したのだけさ。本職は矢張《やつぱり》洋画の方だ。』
『然う?』と清子は[#「清子は」はママ]鋏の鈴をコロ/\鳴らし乍ら、『展覧会なんかにお出しなすつて?』
『一度出した。アレは美術学校を卒業した年よ。然うだ、一昨年《をととし》の秋の展覧会――ソーラ、お前も行つて見たぢやないか? 三尺許りの幅の、「嵐の前」といふ画があつたらう?』
『然うでしたらうか?』
『アレだ。夕方の暗くなりかゝつた室の中で、青白い顔をした女が可厭《いやあ》な眼付をして、真白な猫を抱いてゐたらう? 卓子《ていぶる》の上には披《ひろ》げた手紙があつて、女の頭へ蔽被《おつかぶ》さる様に鉢植の匂ひあらせいとう[#「あらせいとう」に傍点]が咲いてゐた。そして窓の外を不愉快な色をした雲が、変な形で飛んでゐた。』
『見た様な気もするわ。それでナンですの、「嵐の前」?』
『然うよ、その画の意味は那《あ》の頃の人に解らなかつたんだ。日本のモロウよ、仲々偉い男だ。』
『モロウて何の事?』
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