31−上−21]乎《ぼうつ》として、淡い月光《つきかげ》と柔かな靄《もや》に包まれて、底もなき甘い夜の静寂《しづけさ》の中に蕩《とろ》けさうになつた静子の心をして、訳もなき突差の同情を起さしめた。
『此《この》女《ひと》は兄に未練を有《も》つてる!』といふ考へが、瞬く後に静子の感情を制した。厭はしき怖れが胸に湧いた。
 然しそれも清子に対する同情を全くは消さなかつた。女は悲いものだ! と言ふ様な悲哀《かなしみ》が、静子に何も言ふべき言葉を見出させなかつた。
『怎《ど》うです。少し早く歩いては?』
と信吾が呼んだ。二人は驚いて顔を挙げた。

     (四)の九

 其夜、人々に別れて智恵子が宿に着いた時はモウ十時を過ぎてゐた。
 ガタビシする入口の戸を開けると、其処から見透《すとほ》しの台所の炉辺《ろばた》に、薄暗く火屋《ほや》の曇つた、紙笠の破れた三分心の吊洋燈《つりらんぷ》の下《もと》で、物思はし気に悄然《しよんぼり》と坐つて裁縫《しごと》をしてゐたお利代は、
『あ、お帰りで御座いますか。』
と急しく出迎へる。
『遅くなりまして。新坊さんもモウお寝《やす》み?』
『ハ、皆《みんな》
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