代、お利代。』と、嗄《しはが》れた声で呼び、老女《としより》が眼を覚まして、寝返りでも為《し》たいのであらう。
 智恵子はハツとした様に手を引いた。お利代は涙に濡れた顔を挙げて、
『ハ、只今。』
と答へたが、其顔に言ふ許りなき感謝の意《こころ》を湛《たた》へて、『一寸。』と智恵子に会釈して立つ。急《いそが》しく涙を拭つて、隔ての障子を開けた。
 其後姿を見送つた目を、其処に置いて行つた手紙の上に移して、智恵子は眤《じつ》と呼吸を凝《こら》した。神から授つた義務を遂《は》たした様な満足の情が胸に溢れた。そして、「私に出来るだけは是非して上げねばならぬ!」と、自分に命ずる様に心に誓つた。
『あゝゝ、よく寝た。モウ夜が明けたのかい、お利代?』
と老女《としより》の声が聞える。
『ホホヽヽ、今|午後《ひるすぎ》の三時頃ですよ祖母《おばあ》さん。御気分は?』
『些《ちつ》とも平生《ふだん》と変らないよ。ナニか、先生はモウお出掛か?』
『否《いいえ》、今日は土曜日ですから先刻《さつき》にお帰りになりましたよ。そしてね祖母《おばあ》さん、アノ、梅と新坊に単衣を買つて来て下すつて、今縫つて下すつてるの
前へ 次へ
全217ページ中55ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング