濯の音をさしてゐる。
智恵子は白い布《きれ》を膝に被《か》けて、余念もなく針を動かしてゐた。
小供の衣服《きもの》を縫ふ――といふ事が、端《はし》なくも智恵子をして亡き母を思出させた。智恵子は箪笥の上から、葡萄色《えびいろ》天鵞絨《ビロウド》の表紙の、厚い写真帖を取下して、机の上に展いた。
何処か俤《おもかげ》の肖通《にかよ》つた、四十許の品の良い女の顔が写されてゐる。
智恵子はそれに懐し気な眼を遣り乍ら針の目を運んだ。亡き母!……智恵子の身にも悲しき追憶《おもひで》はある。
生れたのは盛岡だと言ふが、まだ物心付かぬうちから東京に育つた──父が長いこと農商務省に技手《ぎしゆ》をしてゐたので――十五の春|御茶水《おちやのみづ》の女学校に入るまで、小学の課程は皆東京で受けた。智恵子が東京を懐しがるのは、必ずしも地方に育つた若い女の虚栄と同じではなかつた。
十六の正月、父が俄かの病で死んだ。母と智恵子は住み慣れた都を去つて、盛岡に帰つた。――唯一人の兄が県庁に奉職してゐたので。――浮世の悲哀《かなしみ》といふものを、智恵子は其時から知つた。間もなく母は病んだ。兄には善からぬ行為《
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