妹は加藤の宅《うち》で兄を待合して一緒に帰ることにしてある。
『疚《やま》しい事があるんぢやなし……。』と信吾は自分を励ました。『それに、加藤は未《ま》だ廻診から帰つてゐまい。』と考へると、『然うだ。玄関だけで口上を済まして、静子を伴出して帰らうか。』と、つい卑怯な考へも浮ぶ。
『清子は甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》顔をするだらう?』と、好奇心が起つた。と、
『私はアノ[#「アノ」は太字]、貴君《あなた》のお言葉一つで……。』と言つて眤《じつ》と瞳を据ゑた清子の顔が目に浮んだ。――それは去年の七月の末、加藤との縁談が切迫塞《せつぱつま》つて、清子がトある社《やしろ》の杜《もり》に信吾を呼び出した折のこと。――その眼には、「今迄この私は貴君の所有《もの》と許り思つてました。恁《か》う思つたのは間違でせうか?」といふ、心を張つめた美しい質問が涙と共に光つてゐた。二人の上に垂れた楓の枝が微風《そよかぜ》に揺れて、葉洩れの日影が清子の顔を明るくし又暗くしたことさへ、鮮かに思出される。
 稚い時からの恋の最後《をはり》を、其時、二人は人
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