少し落着いて来た。
「然し、」と彼は復《また》しても吉野が憎くなる。「アノ野郎|奴《め》、(有難う御座います。)とはよくも言ひやがつた!」
信吾の憤《いか》りは再《また》発した。(有難う御座います。)その言葉を幾度か繰返して思出して、遂に、頭髪《かみ》を掻※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《かきむし》りたい程腹立たしく感じた。そして、彼の癖の、ステツキを強く揮つて、自暴《やけ》にヒユウと空気を切つた。
『信吾|様《さん》!』
と女の声。彼は驚いた様に顔を上げると、富江が白地の浴衣に月影を滴らせて、近いて来る。草履を穿いてるのか足音がしない。
『信吾|様《さん》!』と富江は再《また》呼んだ。
『あ、神山|様《さん》でしたか!』と一寸足を留めて、直ぐまた歩き出さうとする。
『マア、何処へ被行《いらつしや》るの?』
答もせずに信吾は五六歩歩いて、そしてグルリと自暴《やけ》に体を向直した。
『ハハヽヽ。何処へ行つたんです貴女こそ?』
『生徒の家《うち》へ招待《よば》れて、門前寺の…………一人で散歩するなんて気が利かないぢやありませんか、貴方は!』
『貴女だつて一人ぢやないか!』
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