忘れる事は出来ぬであらう。
松原からの縁談は、その初め、当の対手の政治に対する嫌悪の情と、自分が其人の嫂であつたことに就ての、道徳的な思慮《かんがへ》やら或る侮辱の感やらで、静子は兄に手頼《たよ》つて破談にしようとした。が、一度吉野を知つてからの静子は、今迄の理由の外に、モ一つ、何と自分にも解らぬが、兎にも角にも心の底に強い頼みが出来た。
恰度橋の上に来た時である。
『此処で御座いましたわねえ、初めてお目に懸つたのは!』
恁《か》う静子は慣々《なれなれ》しく言つてみた。月は其夢みる様な顔を照した。
『然《さ》うでしたねえ!』
と吉野は答へた。そして、何か思出した様に少許《すこし》俯向《うつむ》いて黙つた。
その態度《やうす》は、屹度|那《あ》の時の事を詳しく思出してるのだと静子に思はせた。静子も強ひて其時の事を思出して見た。二人が今、互ひに初めて逢つた時を思出してるといふ感が、女の心に言ふ許りなき満足を与へた。
が、吉野の胸にあつたのは其事ではなかつた。渠《かれ》は、信吾が屹度智恵子の家《うち》にゐると考へた。そして今自分らが訪ねて行つたら、何と信吾が嘘を吐いて、夕方までに帰
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