ら、今でも表面では小川家の令嬢に違ひないが、其実、モウ其時から未亡人になつてるのだ。
その夏休暇で帰つた信吾は、さらでだに内気の妹が、病後の如く色沢《いろつや》も失せて、力なく沈んでるのを見ては、心の底から同情せざるを得なかつた。そして慰めた。信吾も其頃は、感情の荒んだ今とは別人の様で、血の熱《あたた》かい真率《まじめ》な、二十二の若々しい青年であつたのだ。
九月になつて上京する時は、自ら両親を説いて、静子を携へて出たのであつた。兄妹《ふたり》は本郷|真砂町《まさごちやう》の素人屋に室《へや》を並べてゐて、信吾は高等学校へ、静子は某《なにがし》の美術学校へ通つた。当時少尉の松原政治が、兄妹《ふたり》に接近し始めたのは、其後間もなくの事であつた。
『姉さん、』と或時政治が静子を呼んだ。静子はサツと顔を染めて俯向《うつむ》いた。すると、『僕は今迄一度も、貴女を姉さんと呼ぶ機会がなかつた。これからもモウ其機会がないと思ふと、実に残念です。』と真摯《まじめ》になつて言つた事がある。静子も其初め、亡き人の弟といふ懐しさが先に立つて、政治が日曜毎の訪問を喜ばぬでもなかつた。
何日《いつ》の間
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