の、年中日の目を見ぬ仄暗い坂を下《お》り尽すと、其処は町裏の野菜畑が三角形に山の窪みへ入込んで、其奥に小《ささや》かな柾葺《まさぶき》の屋根が見える。大窪の泉と云つて、杉の根から湧く清水を大きい据桶に湛へて、雨水を防ぐ為に屋根を葺《ふ》いた。町の半数の家々ではこの水で飯《めし》を炊《かし》ぐ。
 蓊欝《こんもり》と木が蔽《かぶさ》つてるのと、桶の口を溢れる水銀の雫の様な水が、其処らの青苔や円《まろ》い石を濡らしてるのとで、如何《いか》な日盛《ひざかり》でも冷《すずし》い風が立つてゐる。智恵子は不図|渇《かつ》を覚えた。まだ午食《ひるめし》に余程間があると見えて、誰一人水汲が来てゐない。
 重い柄杓《ひしやく》に水を溢れさせて、口移しに飲まうとすると、サラリと髪が落つる。髪を被《かづ》いた顔が水に映つた。先刻《さつき》から断間《しきり》なしに熱《ほて》つてるのに、周辺《あたり》の青葉の故か、顔が例《いつも》よりも青く見える。
 智恵子は二口許り飲んだ。歯がキリ/\する位で、心地よい冷《つめた》さが腹の底までも沁み渡つた。と、顔の熱るのが一層感じられる。『怎《ど》して青く見えたか知ら!』と
前へ 次へ
全217ページ中130ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング