手紙を届けるべく、智恵子は渋民に帰つた翌日《あくるひ》の午前、何気なく加藤医院を訪づれたのであつた。
玄関には、腰掛けたのや、上込んだのや、薄汚い扮装《なり》をした通ひの患者が八九人、詰らな相な顔をして、各自《てんで》に薬瓶の数多く並んだ棚や粉薬《こぐすり》を分量してゐる小生意気な薬局生の手先などを眺めてゐた。智恵子が其処へ入ると、有《ありつ》たけの眼が等しく其美しい顔に聚《あつま》つた。
『奥様は?』
『ハイ。』と答へて、薬局生は匙《さじ》を持つた儘中に入つてゆく。居並ぶ人々は狼狽《うろた》へた様に居住ひを直した。諄々《くどくど》と挨拶したのもあつた。
今朝髪を洗つたと見えて、智恵子は房々した長い髪を、束ねもせず、緑の雲を被《かつ》いだ様に、肩から背に豊かになびかせた。白地に濃い葡萄色の矢絣《やがすり》の新しいセルの単衣に、帯は平常《ふだん》のメリンス、その整然《きちん》としたお太鼓が揺めく髪に隠れた。
少し手間取つて、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]皇《そそくさ》と小走りに清子が出て来た。
『マア日向先生、何日《いつ》お帰りになりましたの? サ何卒《どうぞ》。』
『
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