無いんですけど……。』
『手紙の様子ぢや然う見えたんだが。』
『さうぢや無いんですけど。』と繰返して、『怎《どう》せ貴兄《あなた》の居る間《うち》に、何とか決めなけやならない事よ。』
『然うか、それで未だ先方には何とも返事してないんだね?』
『ええ。兄様《にいさん》の帰つてらつしやるのを待つてたんだわ。』
信吾は少し言淀んで、『昨日発つ時にね、松原君が上野まで見送りに来て呉れたんだ。……』
静子は黙つて兄の顔を見た。松原|政治《せいぢ》といふのは、近衛の騎兵中尉で、今は乗馬学校の生徒、静子の縁談の対手なのだ。
(一)の四
『発つ四五日前にも、』と信吾は言葉を次いだ。『突然|訪《や》つて来て大分夜更まで遊んで行つた。今度の問題に就いちや別段話もなかつたが、(俺もモウ二十七ですからねえ。)なんて言つてゐたつけ。』
静子は黙つて聞いてゐた。
『休暇で帰るのに見送《みおくり》なんか為《し》て貰はなくツても可《い》いと言つたのに、態々《わざわざ》俥でやつて来てね。麦酒《びーる》や水菓子なんか車窓《まど》ン中へ抛り込んでくれた。皆様《みなさん》に宜敷ツて言つてたよ。』
『然うで
前へ
次へ
全217ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング