へば、郡でも相応な資産家として、また、当主の信之《のぶゆき》が郡会議員になつてゐる所から、主《おも》なる有志家の一人として名が通つてゐる。信吾は其家《そこ》の総領で、今年大学の英文科を三年に進んだ。何と思つたか知らぬが、この暑中休暇は東京で暮す積《つもり》だと言つて来たのを、故家《うち》では、村で唯一人の大学生なる吾子の夏毎の帰省を、何よりの誇見《みえ》にて楽みにもしてゐる、世間|不知《しらず》の母が躍起になつて、自分の病気や静子の縁談を理由に、手酷く反対した。それで信吾は、格別の用があつたでもないのか、案外|穏《おとな》しく帰ることになつたのだ。
 午前十一時何分かに着く筈の下り列車が、定刻を三十分も過ぎてるのに、未《ま》だ着かない。姉妹を初め、三四人の乗客が皆もうプラツトフオームに出てゐて、※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はる》か南の方《かた》の森の上に煙の見えるのを、今か今かと待つてゐる。二人の小妹《いもうと》は、裾短かな海老茶の袴、下髪《おさげ》に同じ朱鷺色《ときいろ》のリボンを結んで、訳もない事に笑ひ興じて、追ひつ追はれつする。それを羨まし気に見ながら
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