んは丈夫ぢやないのね。』
『若い時の応報《むくい》さ。』
『まあ!』と目を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。母のお柳《りう》は昔盛岡で名を売つた芸妓《げいしや》であつたのを、父信之が学生時代に買馴染んで、其為に退校にまでなり、家中《うちぢゆう》反対するのも諾《き》かずに無理に落籍さしたのだとは、まだ女学校にゐる頃叔母から聞かされて、訳もなく泣いた事があつたが、今迄遂ぞ恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》言葉を兄の口から聞いた事がない。静子は、宛然《さながら》自分の秘密でも言現《いひあらは》された様な気がした。
(一)の三
信吾も少し言過ぎたと思つたかして直ぐに、
『だが何か? 服薬はしてるだらうね?』
『ええ。……加藤さんが毎日来て診て下さるのよ。』
『然うか。』と言つて、また態《わざ》とらしく、『然うか、加藤といふ医師《いしや》があつたんだな。』
静子はチラリと兄の顔を見た。
『医師が毎日来る様ぢや、余り軽いんでもないんだね?』
『然うぢやないのよ。加藤さんは交際家なんですもの。』
『フム、交際家か!』と短い髯を捻つて、
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]風ぢや相応に繁昌《はや》つてるんだらう?』
『ええ、宅の方へ廻診に来る時は、大抵自転車よ。でなけや馬に騎《の》つて来るわ。』
『ホウ、景気をつけたもんだな。そして何か、モウ小児《こども》が生れたのか?』
『……まだよ。』と低い声で答へて目を落した。
『それぢや清子さんも暇があつて可《い》いんだらう。』
『ええ。』
『女は小児を有《も》つと、モウ最後だからな。』
静子は妙にトチツて、其儘口を噤《つぐ》んで了つた。人は長く別れてゐると、その別れてゐた月日の事は勘定に入れないで、お互ひにまだ別れなかつた時の事を基礎《どだい》に想像する。静子は、清子が加藤と結婚した事について、少からず兄に同情してゐる。今度帰つて来て、毎日来る加藤と顔を合せるのも、兄は甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》に不愉快な思ひをするだらう、などとまで狭い女心に心配もしてゐた。そして、何かしらそれに関した事を言出されるかと、宛然《さながら》、自分の持つてゐる鋭い刃物に対手が手を出すのを、ハラ/\して見てゐる様な気がしてゐたが、信吾の言語《ことば》は、故意《わざと》かは知れないが余りに平気だ、余りに冷淡だ。今迄の心配は杞憂に過ぎなかつた様にも思ふ。又、兄は自ら偽つてるのだとも思ふ。そして、心の底の奈辺《どこ》かでは、信吾がモウ清子の事を深く心にとめても居ないらしい口吻《くちぶり》を、何となく不満足に感じられる。
その素振を見て取つて、信吾は亦自分の心を妹に勝手に忖度《そんたく》されてる様な気がして、これも黙つて了つた。
二人は並んで歩いた。蒸す様な草いきれと、乾いた線路の土砂《つち》の反射する日光とで、額は何時しか汗ばんだ。静子の顔は、先刻《さつき》の怡々《いそいそ》した光が消えて、妙に真面目に引緊つてゐた。小妹共はモウ五六町も先方《さき》を歩いてゐる。十間許り前を行く松蔵の後姿は、荷が重くて屈《こご》んでるから、大きい鞄に足がついた様だ。
稍あつてから信吾は、
『あの問題は、一体|奈何《どう》なつてるんだい?』と妹を見かへつた。
『あの問題ツて、……松原の方?』と兄の顔を仰ぐ。
『ああ。余程切迫してるのかい?』
『さうぢや無いんですけど……。』
『手紙の様子ぢや然う見えたんだが。』
『さうぢや無いんですけど。』と繰返して、『怎《どう》せ貴兄《あなた》の居る間《うち》に、何とか決めなけやならない事よ。』
『然うか、それで未だ先方には何とも返事してないんだね?』
『ええ。兄様《にいさん》の帰つてらつしやるのを待つてたんだわ。』
信吾は少し言淀んで、『昨日発つ時にね、松原君が上野まで見送りに来て呉れたんだ。……』
静子は黙つて兄の顔を見た。松原|政治《せいぢ》といふのは、近衛の騎兵中尉で、今は乗馬学校の生徒、静子の縁談の対手なのだ。
(一)の四
『発つ四五日前にも、』と信吾は言葉を次いだ。『突然|訪《や》つて来て大分夜更まで遊んで行つた。今度の問題に就いちや別段話もなかつたが、(俺もモウ二十七ですからねえ。)なんて言つてゐたつけ。』
静子は黙つて聞いてゐた。
『休暇で帰るのに見送《みおくり》なんか為《し》て貰はなくツても可《い》いと言つたのに、態々《わざわざ》俥でやつて来てね。麦酒《びーる》や水菓子なんか車窓《まど》ン中へ抛り込んでくれた。皆様《みなさん》に宜敷ツて言つてたよ。』
『然うで
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