始め祖父《おぢいさん》までが折角勧めるけれど、自分では奈何《どう》しても嫁《ゆ》く気になれない、此心をよく諒察《くみと》つて、好《うま》く其間に斡旋《あつせん》してくれるのは、信吾の外にないと信じてゐるのだ。
『来た、来た。』と、背の低い駅夫が叫んだので、フオームは俄《には》かに色めいた。も一人の髯面《ひげづら》の駅夫は、中に人のゐない改札口へ行つて、『来ましたよウ。』と怒鳴つた。濃い煙が、眩しい野末の青葉の上に見える。

     (一)の二

 凄じい地響をさせて突進して来た列車が停ると、信吾は手づから二等室の扉《ドア》を排《あ》けて、身軽に降り立つた。乗降の客や駅員が、慌しく四辺《あたり》を駆ける。※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]笛が澄んだ空気を振はして、※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車は直ぐ発つた。
 荷札《チエツキ》扱ひにして来た、重さうな旅行鞄を、信吾が手伝つて、頭の禿げた松蔵に背負《しよは》してる間に、静子は熟々《つくづく》其容子を見てゐた。ネルの単衣に涼しさうな生絹《きぎぬ》の兵子帯《へこおび》、紺キヤラコの夏足袋から、細い柾目の下駄まで、去年の信吾とは大分違つてゐる。中肉の、背は亭乎《すらり》として高く、帽子には態《わざ》と記章も附けてないから、打見には誰にも学生と思へない。何処か厭味のある、ニヤケた顔ではあるが、母が妹の静子が聞いてさへ可笑《をかし》い位自慢にしてるだけあつて、男には惜しい程|肌理《きめ》が濃《こまか》く、色が白い。秀でた鼻の下には、短い髯を立てゝゐた。それが怎《どう》やら老《ふ》けて見える。老けて見えると同時に、妹の目からは、今迄の馴々しさが顔から消え失せた様にも思はれる。軽い失望の影が静子の心を掠めた。
『何を其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に見てるんだ、静さん?』
『ホホ、少し老《ふ》けて見えるわね。』と静子は嫣乎《につこり》する。
『あゝ之か?』と短い髭を態《わざ》とらしく捻り上げて、『見落されるかと思つて心配して来たんだ。ハハハ。』
『ハハハ。』と松蔵も声を合せて、背《せな》の鞄を揺《ゆす》り上げた。
『怎だ、重いだらう?』
『何有《なあに》、大丈夫でごあんす。年は老《と》つても、』と復《また》揺り上げて、『さあ、松蔵が先に立ちますべ。』
 連立つて停車場《ステーシヨン》を出た。静子は、際どくも清子の事を思浮べて、杖形《すてつきがた》の洋傘《かさ》を突いた信吾の姿が、吾兄ながら立派に見える、高が田舎の開業医づれの妻となつた彼《あ》の女《ひと》が、今度この兄に逢つたなら、甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》気がするだらうなどと考へてゐた。
 二町許りも構内の木柵に添うて行くと、信号柱《シグナル》の下で踏切になる。小川家へ行くには、此処から線路伝ひに南へ辿つて、松川の鉄橋を渡るのが一番の近道だ。二人の小妹《いもうと》は、早く帰つて阿母《おつか》さんに知らせると言つて、足調《あしなみ》揃へてズン/\先に行く。松蔵は大跨にその後に跟《つ》いた。
 信吾と静子は、相並んで線路の両側を歩いた。梅雨後《つゆあがり》の勢のよい青草が熱蒸《いき》れて、真面《まとも》に照りつける日射が、深張の女傘《かさ》の投影《かげ》を、鮮かに地《つち》に印《しる》した。静子は、逢つたら先づ話して置かうと思つてゐたことも忘れて、この夏は賑やかに楽く暮せると思ふと、もう怡々《いそいそ》した心地になつた。
『皆が折角待つてることよ。』
『然《さ》うか。実は此夏少し勉強しようと思つたんだがね。』
『勉強は家《うち》でだつて出来ない事なくつてよ。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》にお邪魔しないわ。』
『それも然うだが、小供が大勢ゐるからな。』
『だつて阿母《おつか》さんが那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》に待つてますもの。』
『その阿母さんの病気ツてな甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》だい? タント悪いんぢやないだらう?』
『えゝ、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に悪いといふ程ぢやないんですけど……。』
『臥《ね》てゐるか?』
『臥たり起きたり。例《いつも》のリウマチに、胃が少し悪いんですつて。』
『胃の悪いのは喰過ぎだ。朝《あさ》ツから煙草許り喫《の》んでゐて、躰屈《たいくつ》まぎれに種々《いろん》な物を間食するから悪いんだよ。』
『でもないでせうが、一体阿母さ
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