したか。』と気の無さ相な返事。
『皆様にぢやない静さんにだらうと、余程《よつぽど》言つてやらうかと思つたがね。』
『マア!』
『ナニ唯思つた丈さ。まさか口に出しはしないよ。ハツハハ。』
この松原中尉といふのは、小川家とは遠縁の親籍で、十里許りも隔つた某村《なにがしむら》の村長の次男である。兄弟三人皆軍籍に身を置いて、三男の狷介《けんすけ》と云ふのが、静子の一歳《ひとつ》下の弟の志郎と共に、士官候補生になつてゐる。
長男の浩一は、過る日露の役に第五聨隊に従つて、黒溝台《こくこうだい》の悪戦に壮烈な戦死を遂げた。――これが静子の悲哀《かなしみ》である。静子は、女学校を卒へた十七の秋、親の意に従つて、当時歩兵中尉であつた此《この》浩一と婚約を結んだのであつた。
それで翌年《あくるとし》の二月に開戦になると、出征前に是非|盃事《さかづきごと》をしようと小川家から言出した。これは浩一が、生きて帰らぬ覚悟だと言つて堅く断つたが、静子は父信之の計ひで、二月許りも青森へ行つて、浩一と同棲した。
浩一の遺骨が来て盛んな葬式が営まれた時は、母のお柳の思惑で、静子は会葬することも許されなかつた。だから、今でも表面では小川家の令嬢に違ひないが、其実、モウ其時から未亡人になつてるのだ。
その夏休暇で帰つた信吾は、さらでだに内気の妹が、病後の如く色沢《いろつや》も失せて、力なく沈んでるのを見ては、心の底から同情せざるを得なかつた。そして慰めた。信吾も其頃は、感情の荒んだ今とは別人の様で、血の熱《あたた》かい真率《まじめ》な、二十二の若々しい青年であつたのだ。
九月になつて上京する時は、自ら両親を説いて、静子を携へて出たのであつた。兄妹《ふたり》は本郷|真砂町《まさごちやう》の素人屋に室《へや》を並べてゐて、信吾は高等学校へ、静子は某《なにがし》の美術学校へ通つた。当時少尉の松原政治が、兄妹《ふたり》に接近し始めたのは、其後間もなくの事であつた。
『姉さん、』と或時政治が静子を呼んだ。静子はサツと顔を染めて俯向《うつむ》いた。すると、『僕は今迄一度も、貴女を姉さんと呼ぶ機会がなかつた。これからもモウ其機会がないと思ふと、実に残念です。』と真摯《まじめ》になつて言つた事がある。静子も其初め、亡き人の弟といふ懐しさが先に立つて、政治が日曜毎の訪問を喜ばぬでもなかつた。
何日《いつ》の間にかパツタリと足が止つた。其間に政治は、同僚に捲込まれて酒に親む事を知つた。そして一昨年《おととし》の秋中尉に昇進してからは、また時々訪ねて来た。然しモウ以前の単純な、素朴な政治ではなかつた。或時は微醺《びくん》を帯びて来て、些々《ちよいちよい》擽る様な事を言つた事もある。又或時は同じ中隊だといふ、生半可な文学談などをやる若い少尉を伴れて来て、態《わざ》と其前で静子と親しい様に見せかけた。そして、静子が次の間へ立つた時、『怎《どう》だ、仲々|美《い》いだらう?』と低い声で言つたのが襖越しに聞こえた。静子は心に憤《いきどほ》つてゐた。
昨年の春、母が産後の肥立が悪くて二月も患つた時、看護に帰つて来た儘静子は再び東京に出なかつた。そして、此六月になつてから、突然政治から結婚の申込みを享けたのだ。
『それで、兄様《にいさん》は奈何《どう》思つて?』と、静子は、並んで歩いてゐる信吾の横顔を眤《じつ》と見つめた。
(一)の五
『奈何ツて言つた所で、問題は頗る簡単だ。』
『然う?』と静子は兄の顔を覗く様にする。
『簡単さ。本人が厭なら仕様がないぢやないか。』
『そんなら可いけど…………』と嫣乎《につこり》する。
『だがマア、お父さんやお母《つか》さんの意見も聞いて見なくちやならないし、それに祖父《おぢい》さんだつて何か理屈を言ふだらうしね。』
『ですけど、私奈何したつて嫁《い》かないことよ。』
『そう頭ツから我を張つたつて仕方がないが、マア可いよ、僕に任して置けや心配する事は無い。お前の心はよく解つてるから。』
『真箇《ほんと》?』
『ハハハ。まるで小児みたいだ。』と信吾は無造作に笑ふ。
静子も声を合せて笑つたが、『マ嬉しい。』と言つて額の汗を拭く。顔が晴やかになつて、心持か声も華やいだ。
『兄様、アノ面白い事があつてよ。』
『何だ?』
『叔父さんが私《あたし》に同情してるわ。』
『叔父さんて誰? 昌作さんか?』
『ええ。』と言つて、さも可笑相《をかしさう》な目付をする。昌作といふのは父信之の末の弟、兄妹《ふたり》には叔父に違ひないが、齢は静子よりも一つ下の二十一である。
『今度の事件にか?』
『然うよ。過日《こなひだ》奥の縁側で、祖母《おばあ》さんと何か議論してるの。そして静子々々ツて何か私の事言つてる様なんですからね、悪いと思つたけど私立つて聞いたことよ。
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