なくつて?』
初めて聞いた言葉ではないが、お利代は大きい眼を瞠《みはつ》て眤《じつ》と智恵子の顔を見た。何と答へて可《いい》か解らないのだ。
母は早く死んだ。父は家産を倒して行方が知れぬ。先夫は良い人であつたが、梅といふ女児《こども》を残して之も行方知れず(今は函館にゐるが)。二度目の夫は日露の役に従つて帰らずなつた。何か軍律に背いた事があつて、死刑にされたのだといふ。七十を越した祖母一人に小供二人、己《おの》が手一つの仕立物では細い煙も立て難くて、一昨年《をととし》から女教師を泊めた。去年代つた智恵子にも居て貰ふことにした。この春祖母が病付いてからは、それでも足らぬ。足らぬ所は何処から出る? 智恵子の懐から!
言つて見れば赤の他人だ。が、智恵子の親切は肉身《しんみ》の姉妹《きやうだい》も及ばぬとお利代は思つてゐる。美しくつて、優しくつて、確固《しつかり》した気立《きだて》、温かい情《こころ》……かくまで自分に親くしてくれる人が、またと此世にあらうかと、悲しきお利代は夜更けて生活《なりはひ》の為の裁縫をし乍らも、思はず智恵子の室に向いて手を合せる事がある。智恵子を有難いと思ふ心から、智恵子の信ずる神様をも有難いものに思つた。
『アノ……小母さん。』と智恵子は稍|躊躇《ためら》ひ乍ら、机の上の財布《かみいれ》を取つて其中から紙幣《さつ》を一枚、二枚、三枚……若しや軽蔑したと思はれはせぬかと、直ぐにも出しかねて右の手に握つたが、
『アノ、小母さん、私小母さんの家の人よ。ね。だからアノ、毎日我儘許りしてるんですから悪く思はないで頂戴よ。ね。私小母さんを姉さんと思つてるんですから。』
『それはモウ……。』と言つて、お利代は目を落して畳に片手をついた。
『だからアノ、悪く思はれる様だと私却て済まないことよ。ね。これはホンのお小遣よ。祖母《おばあ》さんにも何か……』
と言ひ乍ら握つたものを出すと、俯いたお利代の膝に龍鍾《はらはら》と霰《あられ》の様な涙が落ちる。と見ると智恵子はグツと胸が迫つた。
『小母さん!』と、出した其手で矢庭に畳に突いたお利代の手を握つて、
『神よ!』
と心に呼んだ。『願くば御恵《みめぐみ》を垂れ給へ!』瞑《と》ぢた其眼の長い睫毛を伝つて、美しい露が溢れた。
(四)の三
『あゝゝ。』といふ力無い欠呻《あくび》が次の間から聞えて、『お利代、お利代。』と、嗄《しはが》れた声で呼び、老女《としより》が眼を覚まして、寝返りでも為《し》たいのであらう。
智恵子はハツとした様に手を引いた。お利代は涙に濡れた顔を挙げて、
『ハ、只今。』
と答へたが、其顔に言ふ許りなき感謝の意《こころ》を湛《たた》へて、『一寸。』と智恵子に会釈して立つ。急《いそが》しく涙を拭つて、隔ての障子を開けた。
其後姿を見送つた目を、其処に置いて行つた手紙の上に移して、智恵子は眤《じつ》と呼吸を凝《こら》した。神から授つた義務を遂《は》たした様な満足の情が胸に溢れた。そして、「私に出来るだけは是非して上げねばならぬ!」と、自分に命ずる様に心に誓つた。
『あゝゝ、よく寝た。モウ夜が明けたのかい、お利代?』
と老女《としより》の声が聞える。
『ホホヽヽ、今|午後《ひるすぎ》の三時頃ですよ祖母《おばあ》さん。御気分は?』
『些《ちつ》とも平生《ふだん》と変らないよ。ナニか、先生はモウお出掛か?』
『否《いいえ》、今日は土曜日ですから先刻《さつき》にお帰りになりましたよ。そしてね祖母《おばあ》さん、アノ、梅と新坊に単衣を買つて来て下すつて、今縫つて下すつてるの。』
『呀《おや》、然《さ》うかい。それぢやお前、何か御返礼に上げなくちや不可《いけ》ないよ。』
『まあ祖母さんは! 何時でも昔の様な気で……。』
『ホヽヽ。然うだつたかい。だがねお利代、お前よく気を付けてね、先生を大事にして上げなけれや不可《いけ》ないよ。今度の先生の様に良い人はお前、何処に行つたつて有るものぢやないよ。』と小供にでも訓《をし》へる様に言ふ。
智恵子はそれを聞くと、又しても眼の底に涙の鍾《あつま》るを覚えた。
『ア痛、ア痛、寝返《ねがへり》の時に限つてお前は邪慳だよ。』と、今度はお利代を叱つてゐる。智恵子は気が付いた様に、また針を動かし出した。
五分間許り経つてお利代が再び入つて来た時は、何を泣いてか其頬に新しい涙の痕が光つてゐた。
『御気分が宜《い》い様ね?』
『ハ。モウ夜が明けたかなんて恍《とぼ》けて……。』と少し笑つて、『皆《みんな》先生のお蔭で御座います。』
『マア小母さんは!』と同情深《おもひやりぶか》い眼を上げて、『小母さんは何だわね、私を家《うち》の人の様にはして下さらないのね?』
『ですけれど先生、今もアノお祖母さんが、先生の様な人は何処に行つても
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