無いと申しまして……。』と、流石は世慣れた齢だけに厚く礼を述べる。
『辛いわ、私!』と智恵子は言つた。
『何も私なんかに然う被仰《おつしや》る事はなくつてよ、小母さんの様に立派な心掛を有つてる人は、神様が助けて下さるわ。』
『真箇《ほんと》に先生、生きた神様つたら先生の様な人かと思ひまして……。』
『マア!』と心から驚いた様な声を出して、智恵子は清《すず》しい眼を瞠《みは》つた。『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事被仰るもんぢやないわ。』
『ハ。』と言つてお利代は俯いた。今の言葉を若しやお諂辞《せじ》とでも取られたかと思つたのだらう。手は無意識に先刻《さつき》の手紙に行く。
『アラ小母さん、お手紙御覧なさいよ。何処から?』
『ハ?』と目を上げて、『函館からですの。……アノ、梅の父から。』と心持|極悪気《きまりわるげ》に言ふ。
『マア然う?』と軽く言つたが、悪い事を訊いたと心で悔んで。
『アノ先月……十日許り前にも来たのを、返事を遣らなかつたもんですから……』
と言つてる時、門口に人の気勢《けはひ》。
『日向さんは?』
『静子さんですよ。』と囁いてお利代は急いで立つ。
『小母さん、これ。』と智恵子は先刻の紙幣《さつ》を指さしたのでお利代は『それでは!』と受取つて室を出た。
(四)の四
挨拶が済むと、静子は直ぐ、智恵子が片付けかけた裁縫物《したてもの》に目をつけて、
『まあ好《い》い柄ね。』
『でも無いわ。』
『貴女《あんた》ンの?』
『正可《まさか》! 這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》小いの着られやしないわ。』と、笑ひ乍ら縫掛のそれを抓《つま》んで見せる。
『梅ちやんの?』と少し声を潜めた。
『え、新坊さんと二人《ふたあり》の。』
『然う?』と言つて、静子は思ひ有気《ありげ》な眼付をした。無論、智恵子が買つて呉れたものと心に察したので。
智恵子は身の周囲《まはり》を取片付けると、改めて嬉気《うれしげ》な顔をして、
『よく被来《いらし》つたわね!』
『貴女は些《ちつ》とも被来つて下さらないのね?』
『済まなかつたわ。』と何気なく言つたが、一寸目の遣場に困つた。そして、微笑んでる様な静子の目と見合せると色には出なかつたが、ポツと顔の赧むを覚えた。静子清子の外には友も無い身の、(富江とは同僚乍ら余り親くしなかつた。)小川家にも一週に一度は必ず訪《たづ》ねる習慣《ならはし》であつたのに、信吾が帰つてからは、何といふ事なしに訪ねようとしなかつた。
『今日お多忙《いそが》しくつて?』
『否《いいえ》、土曜日ですもの、緩《ゆつく》りしてらしつても可《い》いわね?』
『可けないの。今日は私、お使者《つかひ》よ。』
『でもマア可いわ。』
『アラ、貴女のお迎ひに来たのよ。今夜アノ、宅《うち》で加留多会を行《や》りますから母が何卒《どうぞ》ツて。……被来《いらつしや》るわね?』
『加留多、私取れなくつてよ。』
『マア、貴女御謙遜ね?』
『真箇《ほんと》よ。随分|久《しばら》く取らないんですもの。』
『可いわ。私だつて下手ですもの。ね、被来るわね?』と静子は姉にでも甘へる様な調子。
『然うね?』と智恵子は、心では行く事に決めてゐ乍ら、余り気の乗らぬ様な口を利いて、『誰々? 集るのは?』
『十人|許《ばかし》よ。』
『随分多勢ね?』
『だつて、宅《うち》許りでも選手《チヤンピオン》が三人ゐるんですもの。』
『オヤ、その一人は?』と智恵子は調戯《からか》ふ様に目で笑ふ。
『此処に。』と頤《おとがひ》で我が胸を指して、『下手組の大将よ。』と無邪気に笑つた。
智恵子は、信吾が帰つてからの静子の、常になく生々《いきいき》と噪《はしや》いでゐることを感じた。そして、それが何かしら物足らぬ様な情緒《こころもち》を起させた。自分にも兄がある。然し、その兄と自分の間に、何の情愛がある?
智恵子は我知らず気が進んだ。『何時から? 静子さん。』
『今直ぐ、何物《なんに》も無いんですけど晩餐《ごはん》を差上げてから始めるんですつて。私これから、清子さんと神山さんをお誘ひして行かなけやならないの、一緒に行つて下すつて? 済まないけど。』
『ハ。貴女となら何処までゞも。』と、笑つた。
軈《やが》て智恵子は、『それでは一寸。』と会釈して、『失礼ですわねえ。』と言ひ乍ら、室《へや》の隅で着換に懸つたが、何を思つてか、取出した衣服《きもの》は其儘に、着てゐた紺絣の平常着《ふだんぎ》へ、袴だけ穿いた。
其後姿を見上げてゐた静子は、思出す事でもあるらしく笑《わらひ》を含んでゐたが、少し小声で、『アノ山内様ね。』
『え。』と此方《こつち》へ向く。
『ア
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