濯の音をさしてゐる。
 智恵子は白い布《きれ》を膝に被《か》けて、余念もなく針を動かしてゐた。
 小供の衣服《きもの》を縫ふ――といふ事が、端《はし》なくも智恵子をして亡き母を思出させた。智恵子は箪笥の上から、葡萄色《えびいろ》天鵞絨《ビロウド》の表紙の、厚い写真帖を取下して、机の上に展いた。
 何処か俤《おもかげ》の肖通《にかよ》つた、四十許の品の良い女の顔が写されてゐる。
 智恵子はそれに懐し気な眼を遣り乍ら針の目を運んだ。亡き母!……智恵子の身にも悲しき追憶《おもひで》はある。
 生れたのは盛岡だと言ふが、まだ物心付かぬうちから東京に育つた──父が長いこと農商務省に技手《ぎしゆ》をしてゐたので――十五の春|御茶水《おちやのみづ》の女学校に入るまで、小学の課程は皆東京で受けた。智恵子が東京を懐しがるのは、必ずしも地方に育つた若い女の虚栄と同じではなかつた。
 十六の正月、父が俄かの病で死んだ。母と智恵子は住み慣れた都を去つて、盛岡に帰つた。――唯一人の兄が県庁に奉職してゐたので。――浮世の悲哀《かなしみ》といふものを、智恵子は其時から知つた。間もなく母は病んだ。兄には善からぬ行為《おこなひ》があつた。智恵子は学校にも行けなかつた。教会に足を入れ初めたのは其頃で。
 長患ひの末、母は翌年《あくるとし》になつて遂に死んだ。程なくして兄は或る芸妓《げいしや》を落籍《ひか》して夫婦《いつしよ》になつた。智恵子は其賤き女を姉と呼ばねばならなかつた。遂に兄の意に逆《さから》つて洗礼を受けた。
 智恵子は堅くも自活の決心をした。そして、十八の歳に師範学校の女子部に入つて、去年の春首尾|克《よ》く卒業したのである。兄は今青森の大林区署《だいりんくしよ》に勤めてゐる。
 父は厳しい人で、母は優しい人であつた。その優しかつた母を思出す毎《ごと》に智恵子は東京が恋しくてならぬ。住居は本郷の弓町であつた。四室《よま》か五室《いつま》の広からぬ家であつたが、……玄関の脇の四畳が智恵子の勉強部屋にされてゐた。衡門《かぶきもん》から筋向ひの家に、それは/\大きい楠が一株《ひともと》、雨も洩さぬ程繁つた枝を路の上に拡げてゐた。――静子に訊けば、それが今猶残つてゐると言ふ。
『那《あ》の辺の事を、怎《ど》う変つたか詳しく小川さんの兄様《にいさん》に訊いて見ようか知ら!』とも考へてみた。そして、「訊いた所で仕方がない!」と思返した。
 と、門口に何やら声高に喋る声が聞えた。洗濯の音が止んだ。『六銭。』といふ言葉だけは智恵子の耳にも入つた。

     (四)の二

 すると、お利代の下駄を脱ぐ音がして、軽《かろ》い跫音《あしおと》が次の間に入つた。
 何やら探す様な気勢《けはひ》がしてゐたが、鏗《がちや》りと銅貨の相触れる響《ひびき》。――霎時《しばし》の間何の物音もしない、と老女《としより》の枕頭《まくらもと》の障子が静かに開いて、窶《やつ》れたお利代が顔を出した。
『先生、何とも……。』と小声に遠慮し乍ら入つて来て、
『アノ、これが来まして……。』と言悪気《いひにくげ》に膝をつく。
『何です?』と言つて、見ると、それは厚い一封の手紙、(浜野お利代殿)と筆太に書かれて、不足税の印が捺してある。
『細かいのが御座んしたら、アノ、一寸二銭だけ足りませんから……。』
『あ、然《さ》う?』と皆まで言はせず軽《かろ》く答へて、智恵子はそれを出してやる。
 お利代は極悪気《きまりわるげ》にして出て行つた。
 智恵子は不図針の手を留めて、
「小供の衣服《きもの》よりは、お銭《あし》で上げた方が好かつたか知ら!」と考へた。そして直ぐに、「否《いいや》、まだ有るもの!」と、今しも机の上に置いた財布《かみいれ》に目を遣つた。幾何《いくら》かの持越と先月分の俸給十三円、その内から下宿料や紙筆油などの雑用の払ひを済まし、今日反物を買つて来て、まだ五円許りは残つてるのである。
 お利代は直ぐ引返して来て、櫛巻にした頭に小指を入れて掻き乍ら、
『真箇《ほんと》に何時も/\先生に許り御迷惑をかけて。』と言つて、潤《うる》みを有《も》つた大きい眼を気毒相に瞬《しばたた》く。左の手にはまだ封も切らぬ手紙を持つてゐた。
『まあ其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》こと!』と事も無げに言つたが、智恵子は心の中で、此《この》女《ひと》にはモウ一銭も無いのだと考へた。
『今夜|那《あ》の衣服《きもの》を裁縫《こしら》へて了へば、明日|幾何《いくら》か取れるので御座んすけれど……唯《たつた》四銭しか無かつたもんですから。』
『小母《をば》さん!』と智恵子は口早に圧付《おしつ》ける様に言つた。そして優しい調子で、
『私小母さんの家《うち》の人よ。ぢや
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