い眉毛を動かして、
『実に偉い!』と俄かに言葉を遁がした。そして可厭《いや》な顔をして、口を噤《つぐ》んだ。
信吾はニヤ/\笑ひ乍ら入つて来て、無雑作に片膝を付く。と見ると山内は喰かけの麦煎餅の遣場《やりば》に困つた様に、臆病らしくモヂ/\して、顔を赧めて頭を下げた。
『貴君《あなた》は山内さんですね?』と、信吾は鷹揚に見下す。
『ハ。』と復《また》頭を下げて、其拍子に昌作の方をチラと偸視《ぬす》む。
『何です、昌作さん? 大分《だいぶ》気焔の様だね。バイロンが怎《ど》うしたんです?』と信吾は矢張ニヤ/\して言ふ。
『怎うもしない。』と、昌作は不愉快な調子で答へた。
『怎うもしない? ハヽヽ。何ですか、貴君《あなた》もバイロン崇拝者で?』と山内を見る。
『ハ、否《いいえ》。』と喉が塞つた様に言つて、山内は其狡さうな眼を一層狡さうに光らして、短かい髯を捻つてゐる信吾の顔を閃《ちら》と見た。
『然うですか。だが何だね、バイロンは最《も》う古いんでさ。辺※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》のは今ぢや最《も》う古典《クラシツク》になつてるんで、彼国《むかう》でも第三流位にしきや思つてないんだ。感情が粗雑で稚気があつて、独《ひとり》で感激してると言つた様な詩なんでさ。新時代の青年が那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》古いものを崇拝してちや為様《しやう》が無いね。』
『真理と美は常に新しい!』と、一度砂を潜つた様にザラ/\した声を少し顫して、昌作は倦怠相《けだるさう》に胡坐《あぐら》をかく。
『ハツハヽヽ。』と信吾は事も無げに笑つた。『だが何かね? 昌作さんはバイロンの詩を何《ど》れ/\読んだの?』
昌作の太い眉毛が、痙攣《ひきつ》ける様にピリリと動いた。山内は臆病らしく二人を見てゐる。
『読まなくちや為様が無い!』と嘲る様に対手の顔を見て、
『読まなくちや崇拝もない。何処を崇拝するんです?』と揶揄《からか》ふ様な調子になる。
『信吾や。』と隣の室からお柳が呼んだ。
『富江さんが来たよ。』
昌作はヂロリと其《その》方《はう》を見た。そして信吾が山内に挨拶して出てゆくと、不快な冷笑を憚りもなく顔に出して、自暴《やけ》に麦煎餅を頬張つた。
次の間にはお柳が不平相な顔をして立つてゐて、信吾の顔を見るや否や、
『何だねお前、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》奴等の対手になつてさ! 九月になれや何処かの学校へ代用教員に遣るツて、阿父様《おとうさん》が然《そ》言つてるんだから、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]|愚物《ばか》にや構はずにお置きよ。お前の方が愚物《ばか》になるぢやないか!』と、険のある眼を一汐《ひとしほ》険しくして譴《たしな》める様に言つた。
彼方《むかう》の室からは子供らの笑声に交つて、富江の噪《はしや》いだ声が響いた。
(四)の一
遠くから見ただけの人は、智恵子をツンと取済した、愛相のない、大理石の像の様に冷い女とも思ふ。が、一度近づいて見ては、その滑かな美しい肌の下、晴朗《ぱつちり》とした黒味勝《くろみがち》の眼の底の、温かい心を感ぜずには居られぬ。
同情《おもひやり》の深い智恵子は、宿の子供――十歳《とを》になる梅ちやんと五歳《いつつ》の新坊――が、モウ七月になつたのに垢|染《じ》みた袷を着て暑がつてるのを、例《いつも》の事ながら見るに見兼ねた。
今日は幸ひの土曜日、授業が済むと直ぐ帰つた。そして、帰途《かへりしな》に買つて来た――一円|某《なにがし》の安物ではあるが――白地の荒い染の反物を裁つて、二人の単衣を仕立に掛つた。
障子を開けた格子窓の、直ぐ下から青田が続いた。其青田を貫いて、此《この》家《や》の横から入つた寺道が、二町許りを真直《ましぐら》に、宝徳寺の門に隠れる。寺を囲んで蓊欝《こんもり》とした杉の木立の上には、姫神山が金字塔《ピラミツト》の様に見える。
午後の日射は青田の稲のそよぎを生々と照して、有《ある》か無《なき》かの初夏《はつなつ》の風が心地よく窓に入る。壁一重の軒下を流れる小堰《こぜき》の水に、蝦を掬ふ小供等の叫び、さては寺道を山や田に往返《ゆきかへ》りの男女の暢気《のんき》な濁声《だみごゑ》が手にとる様に聞える――智恵子は其聞苦しい訛にも耳慣れた。去年の秋転任になつてから、モウ十ヶ月を此村に過したので。
隣室からは、床に就いて三月にもなる老女《としより》の、幽かな呻声が聞える。主婦《あるじ》のお利代は、盥《たらひ》を門口に持出して、先刻《さきほど》からバチヤ/\と洗
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