縛られた耶蘇《イエス》がピラトの前に引出されて罪に定められ、棘《いばら》の※[#「日/俛のつくり」、208−下−19]《かんむり》を冠せられ、其|面《おもて》に唾せられ、雨の様な嘲笑を浴びて、遂にゴルゴタの刑場に、二人の盗賊《ぬすびと》と相並んで死に就くまでの悲壮を尽した詩――『耶蘇《イエス》また大声に呼《よばは》りて息絶たり。』と第五十節迄読んで来ると、智恵子は両手を強く胸に組合せて、稍暫し黙祷に耽つた。何時でも此章を読むと、言ふに言はれぬ、深い/\心持になるのだ。
軈《やが》て智恵子は、昨日《きのう》来た朋友《おともだち》の手紙に返事を書かうと思つて、墨を磨り乍ら考へてゐると、不図、今日初めて逢つた信吾の顔が心に浮んだ。………
恰度此時、信吾は学校の門から出て来た。
(二)の三
長過ぎる程の紺絣の単衣に、軽やかな絹の兵子帯、丈《たけ》高い体を少し反身に何やら勢ひづいて学校の門を出て来た信吾の背後《うしろ》から、
『信吾さん!』
と四辺《あたり》憚からぬ澄んだ声が響いて、色|褪《あ》せた紫の袴を靡《なび》かせ乍ら、一人の女が急足《いそぎあし》に追駆《おつか》けて来た。
『呀《おや》!』と振返つた信吾は笑顔を作つて、『貴女もモウ帰るんですか?』
『ハ、其辺《そこいら》まで御同伴《ごいつしよ》。』と馴々敷《なれなれしく》言ひ乍ら、羞《はにか》む色もなく男と並んで、『マア私《わたし》の方が這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》に小い!』
矢張《やはり》女教師の、神山富江といつて、女にして背の低い方ではないが、信吾と並んでは肩先までしか無い。それは一つは、葡萄色《えびいろ》の緒の、穿き減した低い日和下駄を穿いてる為でもある。肉の緊つた青白い細面の、醜い顔ではないが、少し反歯《そつぱ》なのを隠さうとする様に薄い唇を窄《すぼ》めてゐる。かと思へば、些細の事にも其歯を露出《むきだし》にして淡白《きさく》らしく笑ふ。よく物を言ふ眼が間断《ひま》なく働いて、解《ほど》けば握《て》に余る程の髪は漆黒《くろ》い。天賦《うまれつき》か職業柄か、時には二十八といふ齢に似合はぬ若々しい挙動《そぶり》も見せる。一つには未《ま》だ子を有たぬ為でもあらう。
富江には夫がある。これも盛岡で学校教師をしてゐるが、人の噂では二度目の夫だとも言ふ。それが頗る妙で、富江が此村へ来てからの三年の間、お正月を除いては、農繁の休暇《やすみ》にも暑中の休暇にも、遂ぞ盛岡に帰らうとしない。それを怪んで訊ねると、
『何有《なあに》、私なんかモウお婆さんで、夫の側に喰付《くつつ》いてゐたい齢でもありません。』と笑つてゐる。対手によつては、女教師の口から言ふべきでない事まで平気で言つて、恥づるでもなく戯談《じようだん》にして了ふ。
村の人達は、富江を淡白《きさく》な、さばけた、面白い女《ひと》として心置なく待遇《あしら》つてゐる。殊にも小川の母――お柳にはお贔負《きにいり》で、よく其《その》家《いへ》にも出入する。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事から、この町に唯一軒の小川家の親籍といふ、立花といふ家《うち》に半自炊の様にして泊つてゐるのだ。服装《みなり》を飾るでもなく書《ほん》を読むでもない。盛岡には一文も送らぬさうで、近所の内儀さんに融通してやる位の小金は何日《いつ》でも持つてゐると言ふ。
街路《みち》は八分通り蔭《かげ》つて、高声に笑ひ交してゆく二人の、肩から横顔を明々《あかあか》と照す傾いた日もモウ左程暑くない。
『だが何だ、神山さんは何日見ても若いですね。』と揶揄《からか》ふ様に甘つたるく舌を使つて、信吾は笑ひながら女を見下した。
『奢りませんよ。』と言ふ富江の声は訛つてゐる。『ホヽヽ、いくら髯《ひげ》を生やしたつて其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]|年老《としと》つた口は利くもんぢやありませんよ。』
『呀《おや》、また髯《ひげ》を……。』
『寄つてらツしやい。』
と富江は俄かに足を留めた。何時しか己《おの》が宿の前まで来たのだ。
『次にしませう。』
『何故? モウ虐めませんよ。』
『御馳走しますか?』
『しますとも……。』
と言つてる所へ、家《うち》の中から四十五六の汚らしい装《なり》をした、内儀《かみ》さんが出て来て、信吾が先刻《さつき》寄つて呉れた礼を諄々《くどくど》と述べて、夫もモウ帰る時分だから是非上れと言ふ。夫の金蔵といふ此《この》家《や》の主人は、二十年も前から村役場の書記を勤めてゐるのだ。
信吾がそれを断つて歩き出すと、
『信吾さん、それぢや屹度推しかけて行きますよ。』
『あ
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