あ被来《いらつしや》い、加留多なら何時《なんどき》でもお相手になつて上げるから。』
『此方《こつち》から教へに行くんですよ。』と笑ひ乍ら、富江は薄暗い家の中へ入つて行つた。
と、信吾は急に取済した顔をして大跨に歩き出したが、加藤医院の手前まで来ると、フト物忘れでもした様に足を緩《ゆる》めた。
(二)の四
今しもその、五六軒|彼方《かなた》の加藤医院へ、晩餐《ゆふめし》の準備《したく》の豆腐でも買つて来たらしい白い前掛の下婢《げぢよ》が急足《いそぎあし》に入つて行つた。
『何有《なあに》、たかが知れた田舎女《ゐなかもの》ぢやないか!』と、信吾は足の緩んだも気が付かずに、我と我が撓《ひる》む心を嘲つた。人妻となつた清子に顔を合せるのは、流石に快くない。快くないと思ふ心の起るのを、信吾は自分で不愉快なのだ。
寄らなければ寄らなくても済む、別に用があるのでもないのだ。が、狭い村内の交際《つきあひ》は、それでは済まない。殊には、さまでもない病気に親切にも毎日廻診に来てくれるから、是非顔出しして来いと母にも言はれた。加之《のみならず》、今日は妹の静子と二人で町に出て来たので、其妹は加藤の宅《うち》で兄を待合して一緒に帰ることにしてある。
『疚《やま》しい事があるんぢやなし……。』と信吾は自分を励ました。『それに、加藤は未《ま》だ廻診から帰つてゐまい。』と考へると、『然うだ。玄関だけで口上を済まして、静子を伴出して帰らうか。』と、つい卑怯な考へも浮ぶ。
『清子は甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》顔をするだらう?』と、好奇心が起つた。と、
『私はアノ[#「アノ」は太字]、貴君《あなた》のお言葉一つで……。』と言つて眤《じつ》と瞳を据ゑた清子の顔が目に浮んだ。――それは去年の七月の末、加藤との縁談が切迫塞《せつぱつま》つて、清子がトある社《やしろ》の杜《もり》に信吾を呼び出した折のこと。――その眼には、「今迄この私は貴君の所有《もの》と許り思つてました。恁《か》う思つたのは間違でせうか?」といふ、心を張つめた美しい質問が涙と共に光つてゐた。二人の上に垂れた楓の枝が微風《そよかぜ》に揺れて、葉洩れの日影が清子の顔を明るくし又暗くしたことさへ、鮮かに思出される。
稚い時からの恋の最後《をはり》を、其時、二人は人知れず語つたのだ。……此|追憶《おもひで》は、流石に信吾の心を軽《かろ》くはしない。が、その時の事を考へると、「俺は強者だ。勝つたのだ。」といふ浅猿《あさま》しい自負心の満足が、信吾の眼に荒んだ輝きを添へる……。
取済ました顔をして、信吾は大跨に杖を医院の玄関に運んだ。
昔は町でも一二の浜野屋といふ旅籠屋《はたごや》であつた、表裏に二階を上げた大きい茅葺家に、思切つた修繕を加へて、玄関造にして硝子戸を立てた。その取てつけた様な不調和な玄関には、『加藤医院』と鹿爪らしい楷書で書いた、まだ新しい招牌《かんばん》を掲げた。――開業医の加藤は、もと他村《よそむら》の者であるが、この村に医者が一人も無いのを見込んで一昨年《をととし》の秋、この古家を買つて移つて来た、生村《うまれむら》では左程の信用もないさうだが、根が人好のする男で、技術《うで》の巧拙《よしあし》よりは患者への親切が、先づ村人の気に入つた。そして、村長の娘の清子と結婚してからは馬を買ひ自転車を買ひ、田舎者の目を驚かす手術台やら機械やらを置き飾つて、隣村二ヶ村の村医までも兼ねた。
信吾が落着いた声で案内を乞ふと、小生意気《こなまいき》らしい十七八の書生が障子を開けた。其処は直ぐ薬局で、加藤の弟の代診をしてゐる慎次が、何やら薄紅い薬を計量器《メートルグラス》で計つてゐた。
『や、小川さんですか。』と計量器《メートルグラス》を持つた儘で、『さ何卒《どうぞ》お上り下さいまし。』と、無理に擬《ま》ねた様な訛言《なまり》を使つた。
そして、『姉様《ねえさん》、姉様。』と声高く呼んで、『兄もモウ帰る時分ですから。』
『ハ、有難う。妹は参つてゐませんですか?』
其処へ横合の襖が開いて清子が出て来た。信吾を見ると、『呀《あ》。』と抑へた様な声を出して、膝をついて、『ようこそ。』と言ふも口の中。信吾はそれに挨拶をし乍らも、頭を下げた清子の耳の、薔薇《さうび》の如く紅きを見のがさなかつた。
『さ何卒《どうぞ》。静子さんも待つてらつしやいますから。』
『否《いや》、然《さ》うしては……。』と言はうとしたのを止して、信吾は下駄を脱いだ。処女《むすめ》らしい清子の挙動《しうち》が、信吾の心に或る皮肉な好奇心を起さしめたのだ。
(二)の五
二十分許り経つて、信吾|兄妹《きやうだい》は加藤医院を出た。
一筋町を北へ
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