と口元に漂ふ。
家々の前の狭い浅い溝には、腐れた水がチヨロ/\と流れて、縁に打込んだ杭が朽ちて白い菌《きのこ》が生えた。屋根が低くて広く見える街路《みち》には、西並《にしなみ》の家の影が疎な鋸の歯の様に落ちて、処々に馬を脱《はづ》した荷馬車が片寄せてある。雛《にはとり》が幾群《いくむれ》も幾群も、其下に出つ入りつ零《こぼ》れた米を土埃《ほこり》の中に猟《あさ》つてゐた。会つて頭を下げる小児等に、智恵子は一々笑ひ乍ら会釈を返して行く。
一人、煮絞《にし》めた様な浅黄の手拭を冠つて、赤児を背負《おぶ》つた十一二の女の児が、とある家《うち》の軒下に立つて妹らしいのと遊んでゐたが、智恵子を見ると、鼻のひしやげた顔で卑しくニタ/\と笑つて、垢だらけの首を傾《かしげ》る。智恵子は側《そば》へ寄つて来た。
『先生《しえんせえ》!』
『お松、お前また此頃学校に来なくなつたね?』と、柔かな物言ひである。
『これ。』と背中の児を揺《ゆすぶ》つて、相不変《あひかはらず》ニタ/\と笑つてる。子守をするので学校に出られぬといふのだらう。
『背負《おぶ》つてでも可いからお出《いで》なさい。ね、子供の泣く時だけ外に出れば可いんだから。』
お松はそれには答へないで、『先生《しえんせえ》ア今日お菓子喰つてらけな。皆《みんな》してお茶飲んで……。』
『ホホヽヽ。』と智恵子は笑つた。『何処から見てゐたの?……今日はお客様が被来《いらしつ》たから然《さ》うしたの。お前さんの家《うち》でもお客さんが行つたらお茶を出すんでせう?』
『出さねえ。』
信吾は帰省の翌々日、村の小学校を訪問したのであつた。
(二)の二
智恵子の泊つてゐる浜野といふ家は町でもズツと北寄の――と言つても学校からは五六町しかない――寺道の入口の小い茅葺家《かやぶきや》がそれである。智恵子が此家《ここ》の前まで来ると、洗晒しの筒袖を着た小造の女が、十許りの女の児を上框《あがりがまち》に腰掛けさせて髪を結つてやつて居た。
それと見た智恵子は直ぐ笑顔になつて、溝板を渡りながら、
『只今。』
『先生、今日は少し遅う御座《ごあ》んしたなツす。』
『ハ。』
『小川の信吾さんが、学校にお出《いで》で御座《ごあ》んしたらう?』
『え、被来《いらしつ》てよ。』と言つた顔は心持|赧《あか》かつた。『それに今日は三十日ですから少し月末の調べ物があつて……。』と何やら弁疎《いひわけ》らしく言ひながら、下駄を脱いで、『アノ、郵便は来なくつて、小母さん?』
『ハ、何にも……然う/\、先刻《さつき》静子さんがお出になつて、アノ、兄様《にいさん》もお帰省《かへり》になつたから先生に遊びに被来《いらしつ》て下さる様にツて。』
『然う? 今日ですか?』
『否《いいえ》。』と笑を含んだ。『何日《いつ》とも被仰《おつしや》らな御座《ごあ》んした。』
『然うでしたか。』と安心した様に言つて、『祖母《おばあ》さんは今日は?』
『少し好《い》い様で御座んす。今よく眠つてあんすから。』
『夜になると何日でも悪くなる様ね。』と言ひながら、直ぐ横の破れた襖を開けて中を覗いた。薄暗い取散らかした室の隅に、臥床《ふしど》が設けてあつて、汚れた布団の襟から、彼方向《あちらむき》の小い白髪頭が見えてゐる。枕頭《まくらもと》には、漆の剥げた盆に茶碗やら、薬瓶やら、流通の悪い空気が、薬の香《か》と古畳の香に湿つて、気持悪くムツとした。
智恵子は稍|霎《しば》しその物憐れな室の中を見てゐたが、黙つて襖を閉めて、自分の室に入つて行つた。
上り口の板敷から、敷居を跨げば、大きく焚火の炉を切つた、田舎風の広い台所で、其炉の横の滑りの悪い板戸を開けると、六畳の座敷になつてゐる。隔ての煤《すす》びた障子一重で、隣りは老母の病室――畳を布いた所は此|二室《ふたま》しかないのだ。
東向に格子窓があつて、室《へや》の中は暗くはない。畳も此処は新しい。が、壁には古新聞が手際悪く貼られて、真黒《まつくろ》に煤びた屋根裏が見える、壁側に積重ねた布団には白い毛布が被《かか》つて、其《それ》に並んだ箪笥の上に、枕時計やら鏡台やら、種々《いろん》な手廻りの物が整然《きちん》と列べられた。
脱いだ袴を畳んで、桃色メリンスの袴下《はかました》を、同じ地の、大きく菊模様を染めた腹合せの平生《ふだん》帯に換へると、智恵子は窓の前の机に坐つて、襟を正して新約全書《バイブル》を開いた。――これは基督教信者《クリスチヤン》なる智恵子の自ら定めた日課の一つ。五時間の授業に相応に疲れた心の兎《と》もすれば弛むのを、恁《か》うして励まさうとするのだ。
展《ひら》かれたのは、モウ手癖のついてゐる例《いつも》の馬太《マタイ》伝第二十七章である。智恵子は心を沈めて小声に読み出した。
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